カルムイク人
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カルムイク人(カラムイクじん)とは、オイラト(オイラートとするのは間違い)人のロシア名。
ロシア連邦カルムイク共和国に住むカルムイキア人は、1630年にオイラト四部のひとつトルグート部の指導者ホー・オルロク太師に率いられ、同じオイラトのホシュート部に発した内乱を避けてボルガ河畔へ移住した、トルグート部及びホシュート・ドルベト両部の一部、合計五万家族の子孫である。 ボルガ・カルムイク人たちはロシア帝国と同盟し、報酬を得てロシアの敵オスマン帝国やスウェーデンと戦った。
しかし1771年、ロシア人やウクライナ人、ドイツ人の移住者に圧迫されて荒地に押しやられたボルガ・カルムイク人の指導者ウバシは、父祖の地であるイリ地方への帰還を決定した。ところがその年は暖冬で、ボルガ川が凍結しなかったためボルガ西岸にいた半数は取り残されることになった。この取り残された人々こそがカルムイキア自治共和国のカルムイキア人の祖先である。
イリ地方へ帰還を目指した半数は、ロシアの追撃や周辺の諸民族の襲撃などの苦難の末、17万のうち10万人を失いイリへたどり着き、清の乾隆帝の庇護下に入った。また、このときみすみすカルムイク人たちを逃がしたロシア政府の辺境守備での無能振りと権威の失墜が、2年後の1773年のプガチョフの大乱を招くきっかけとなった。
清朝は帰順したカルムイク人をトルグート部と呼び、現在の新疆ウイグル自治区バインゴリン・オイラト族自治州で遊牧を許した。現在、この自治州のトルグート部は約4万人余りとされ、とくに和静県に3万人所在する。この他にもイリ地方や青海省などにも少数が分布する。
なお、ウラジミール・レーニンは、母方の祖母を通じてカルムイク人の血を引いている。
[編集] 外部リンク
- 土尓扈特部落史(中国語)