トルグート
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トルグート(Torγuud)は、近世以降にオイラト部族連合に属した遊牧民集団。
15世紀初め頃ではモンゴル高原西部に有力な集団のひとつであったようだが、同じ世紀の中頃にはオイラト部族連合の一員になっており、オイラトを統一したエセンに従った。
17世紀の前半にオイラトの間で内紛が起こると、トルグート部長ホー・オルロクを中心とするオイラトの部族集団の一部は、内紛を避けて西方に移住した。仏教徒であった彼らは、1632年にカスピ海北岸のヴォルガ川下流域に至ると、この地で遊牧していたテュルク系ムスリム(イスラム教徒)遊牧民のノガイを追い払い、この世紀の後半にはアゾフ海沿岸からカフカス山脈の麓に至る大遊牧国家を築き上げた。彼らは遠い異郷でもチベット仏教の信仰を守りつづけ、清やチベットの活仏との間で連絡をとり続けた。17世紀後半にチベットに赴き、ジュンガルのガルダンによって帰路を阻まれてヴォルガに帰国できなくなったトルグートの巡礼団は、清から現在の内モンゴル自治区西部のエチナ(エジネ)地区に遊牧地を与えられ、清に仕えるエジネ・トルグート部となった。
ヴォルガでトルグートと接したロシア帝国は初めトルグートと争ったが、のちにトルグートの勢力を利用してクリミア・ハン国など黒海方面のムスリム勢力と対抗させようとし、トルグートと同盟を結んでこの方面の戦争にしばしば援軍を要請した。しかし、18世紀の後半になるとトルグートの軍事的優位は薄れ、ヴォルガ川下流域にはロシア人農民やコサックが大量に入り込んで遊牧生活を脅かすようになった。同じ頃、オイラトの故地東トルキスタンのジュンガリアではジュンガルが清に滅ぼされて勢力の空白が生まれたため、1771年トルグートは大挙して東方へと再移住し、清の乾隆帝の保護下に入った。
現在、トルグート部族の大半は分散され、モンゴル国の西部および新疆ウイグル自治区の北部に居住する。バインゴリン・オイラト自治州、中でも和静県に特に多い。また、トルグートの西方移住前に青海に移住していた者の子孫は青海省に残っており、エジネ・トルグート部族の子孫は内モンゴル自治区のエチナにいる。一方、ヴォルガ・トルグートの残る4分の1はヴォルガ流域に残った。彼ら残留したヴォルガ・トルグート遊牧民が現在のカルムイク人の先祖であり、カルムイク人の大半は現在もトルグート部族に属する。