ウプサラの神殿
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ウプサラの神殿(- しんでん)(英語:Temple at Uppsala)は、先史時代に神(北欧神話の神)に礼拝するためにつくられた宗教的な場所である。スウェーデンのガムラ・ウプサラ(古ウプサラ。現在のウプサラの郊外)にあった。
神殿があったことを裏付ける資料はまばらに存在している。古代北欧のサガや、サクソ・グラマティクスの『デンマーク人の事績』の中でも触れられている。 また、ブレーメンのアダム(11世紀のドイツ歴史家)によっても解説がされている。
研究者が神殿に関して主に論争し確定しようとするのは、神殿がガムラ・ウプサラのどの辺りに位置していたか、それが建物であったかどうかといった点である。
研究者の一部は、神殿がスウェーデンの王の住居と混同されていると考えている(しかしそれは北方に何十メートルも離れている)。 その古い神々のための儀式活動の場になった神殿や他の遺跡の上に、しばしばそうであるように、キリスト教の教会が建設された。 2003年と2004年に、地中レーダー探査装置を使った科学的調査が行なわれた。そして、現在建っている教会[1][2]のちょうど真下に、11世紀にあった3つの木造のフェイスティング・ホール(en:mead hall)の少なくとも1つの残骸を発見している。[3]
アイスランドのスノリ・ストゥルルソンは、神殿が神フレイによって建設されたこと、伝えられるところでは彼がウプサラに永住したということを書いている。
またスノッリとサクソ・グラマティクスはそれぞれ、神殿で人間を犠牲に捧げるしきたりを始めたのはフレイであると主張している。 古代北欧のサガ、サクソ・グラマティクス、そして、ブレーメンのアダムが、人々に人気があった祭りとして、ウプサラでの犠牲祭を説明している。この行事にはスウェーデン中から大勢の人が集まったとされる。
こうした記述の多くが、北欧神話として今に伝えられる神々のために人間が生贄とされたことを伝えている。
しかしこのウプサラの神殿は、おそらくは古い神々を信仰する人々とキリスト教徒たちによる直近の戦闘のさなか、1087年にスウェーデン王インゲ1世(en:Inge I of Sweden)によって破壊されただろうと考えられている。
なお、2000年に、スウェーデンで古い神々の宗教(en:heathen)を信仰する人々(アサトル。en:Ásatrúer)が、900年もの間途絶えていた犠牲祭(ブロート。en:blót)をガムラ・ウプサラのその場所で行なっている。
[編集] 註
- ^ ヒースマン姿子「ヴァイキング時代前夜のメーラル地域 -7~9世紀のガムラ・ウップサーラについて-」名古屋大学情報文化学部『情報文化研究』14号、110頁、2001年3月。
- ^ 個人サイト「ルーン文字とバイキング ~死と弔い~イングリンガ・サガとイングリンガ・タル」 - ガムラ・ウプサラの現在の教会と墳墓群の見取り図が掲載されている。
- ^ Alkarp, Magnus & Price, Neil, "Tempel av guld eller kyrka av trä? Markradarundersökningar vid Gamla Uppsala kyrka.", Fornvännen - Journal of Swedish Antiquarian Research Vol 100