アドルフ・ティエール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルイ・アドルフ・ティエール Louis Adolphe Thiers |
|
フランス共和国第3共和制初代大統領
|
|
任期: | 1836年2月22日 – 1839年3月31日 |
---|---|
|
|
出生: | 1797年4月16日 マルセイユ |
死去: | 1877年9月3日 |
ルイ・アドルフ・ティエール(Louis Adolphe Thiers, 1797年4月16日 - 1877年9月3日)は、フランス共和国の政治家・歴史家(首相在任:ルイ・フィリップの七月王政期の1836年-1840年。大統領在任:フランス第三共和政期の1871年-1873年)。
フランス・マルセイユ出身。大学卒業後に弁護士となった。その後、パリに出て自由主義に傾倒し、1814年の王政復古で成立していたブルボン朝の独裁的な政治を批判し、『フランス革命史』という著作を著わして、一躍国民から名声を得た。1830年、フランス七月革命でシャルル10世が追放されてブルボン朝が滅亡した後、オルレアン朝のルイ・フィリップを擁立して自身は財務次官、内相、そして首相となって活躍した。しかし、同じくルイ・フィリップのもとで首相として活躍したフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーとは対立し、これが後に七月王政が倒れる一因を成した。
1848年、フランス二月革命でオルレアン朝が滅んだ後、フランスの秩序回復を目的としてナポレオン3世(ルイ・ナポレオン)を支持。彼のもとでも政治家として活躍したが、まもなく対立して1851年のナポレオン3世のクーデターでフランスから追放されてしまった。1852年、ナポレオン3世から帰国を許されたために帰国した。帰国後はナポレオン3世から自身の補佐役として何度も招きを受けたが、ティエールはこれを拒絶して政界からの引退を表明し、史書の著作に専念するようになった。1869年から政界に復帰し、翌年2月の普仏戦争の最中にボルドー国民議会から行政長官に任じられた。そして普仏戦争でナポレオン3世がプロイセン王国に敗れて退位を余儀なくされた後、新たに成立した国防政府の代表となり、プロイセンとの徹底抗戦を主張する一方でプロイセンの首相・ビスマルクとの和平工作に尽力し、アルザス・ロレーヌの2州をドイツに割譲することで和睦を結んだ。
その後、第三共和政期の初代大統領に選ばれたが、アルザスとロレーヌを割譲したことに怒ったパリの市民によりパリ・コミューンが創設され、一時的に政府をヴェルサイユに移してこれと戦い、勝利した。この戦いで、セーヌ川は赤く染まったと言われている。そしてティエールは大統領として、戦争で荒廃したフランスの復興を目指したが、政府内で王党派と急進的共和派の対立があって彼自身は政治を行なえず、1873年の国民議会の議決により、大統領辞任を余儀なくされてしまった。1877年、81歳で没した。
ティエールは激動するフランスを生き抜いた政治家として評価されているが、どちらかというと歴史家としての評価の方が高い。代表的な著作として『執政政府と第一帝政の歴史』がある。
[編集] 外部リンク
- Site listing links to the Third Republic
- Page on history of French flags with brief outline of formation of the Third Republic
- プロジェクト・グーテンベルクにおける Adolphe Thiersの作品
|
|
|
前任 フランソワ・アンドリュー (文学者) |
アカデミー・フランセーズ 席次38 |
後任 アンリ・マルタン |