黒田斉清
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黒田 斉清(くろだ なりきよ、1795年3月26日(寛政7年2月6日)-1851年2月26日(嘉永4年1月26日))は、筑前国福岡藩の第10代藩主。初名は長順。幼名は松次郎。通称は官兵衛。父は第9代藩主・黒田斉隆(斉清は長男)。母は渡辺忠蔵の養女・真妙院。正室は二条治孝の娘・宝林院。側室は河合氏。子に娘・純(黒田長溥室)。官位は従四位下、左近衛権少将、備前守。
寛政7年(1795年)2月6日誕生。同年10月6日、父斉隆の死去により、家督を相続した。つまり、父である先代藩主・斉隆が死去する半年前に生まれた息子である。しかし、一説には斉隆には男児が無く娘しかいなかったため、斉隆が死去した後、家臣団の策略で支藩である秋月藩主黒田長舒の四男斉清とその娘と取り替えて家督に据えたともいわれている。なお、黒田治之以降、代々の藩主は養子入りや若年での相続、早死になどが続いたため、藩政は重臣たちによって運営されていくようになった。
文政5年(1822年)、斉清は眼病を患ってしまい、若年ながら、鹿児島藩主島津重豪の九男長溥を養子を迎え入れる。文政12年以降は長崎警備を養子長溥にあたらせる。天保5年(1834年)11月6日、隠居し、養子長溥に家督を譲った。当時、失明に近い状態であったという。
天保3年(1832年)3月頃、斉清は重臣黒田播磨に隠居の相談を持ちかけ、翌年11月頃、藩内に隠居の意向を公表した。その一方、天保4年12月、代替わりに際して天保の改革に乗り出した。久野外記や白水要左衛門、花房伝左衛門を中心に御家中並郡町浦御救仕法に取り組ませたのである。具体的には、領内の商人から資金を拠出させて、藩で家臣や領民に融資を行い、借財整理をはからせようとした。しかし、天保7年8月、商人らの反発は大きく、久野・白水・花房を解任し、改革は失敗に終わる。嘉永4年(1851年)正月26日、江戸桜田の藩邸にて死去。享年57。法号は乾竜院利山道見。
なお、斉清は蘭学や本草学に詳しい教養人であり、シーボルトとも会談して蘭学について学んでいるなど、教養人としては開明的であった。当時は富山藩主前田利保とともに博物大名として知られた。とくに鳥類に強い関心を抱き、幼少のときからアヒルを飼育したという。著書にも、『鷲経』・『本草啓蒙補遺』など多数ある。
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