鬼庭良直
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鬼庭 良直(おにわ よしなお、永正10年(1513年) - 天正13年11月17日(1586年1月6日))は、伊達氏の武将。
鬼庭綱元、延元、喜多(綱元の異母姉)らの父。良元、実元の祖父。遠祖は斎藤氏(越前藤原氏)で、斎藤実盛の末裔と称した。
[編集] 経歴
武勇に優れたことから重用されて評定役に列し、伊達晴宗から2千石を与えられて一門衆にまで列せられるという厚遇を与えられている。しかし晴宗が死去した頃に隠居し、左月斎と号した。
1585年、人取橋の戦いでは伊達政宗から老齢にもかかわらず、指揮を任され、金色采配を賜ったという。これを見ても、左月斎が如何に伊達氏から厚い信任を受けていたことがうかがえる。この時、彼は高齢のために重い甲冑が着けられず、黄綿の帽子を着けて戦い、200以上の敵軍の首を取ったという。 この戦いは、諸々の経緯もあってやや性急な進出を計っていた伊達軍が、南奥連合軍三万の攻勢を受けたことによる、決死の防御戦であった。 左月斎は殿軍を努める途中で岩城氏の家臣・窪田十郎に討ち取られるが、これを乗り切った伊達家は最大の危機を脱し大きく飛躍する事になる。