馮異
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馮異(ふう い、? - 34年)は後漢の武将。字は公孫(こうそん)、穎川郡父城縣の人(『後漢書』列伝7・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第7位に序せられる(『後漢書』列伝12)。
[編集] 略歴
姓名 | 馮異 |
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読み・ピンイン | ふうい〔Féng Yì〕 |
時代 | 新代 - 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 34年(建武10年) |
字・別号 | 公孫(字) |
本貫・出身地等 | 豫州頴川郡父城県 |
職官 | 頴川郡掾〔新〕→主簿〔更始〕
→偏将軍〔劉秀〕→孟津将軍〔劉秀〕 |
爵位・号等 | 応侯〔劉秀〕→陽夏侯〔後漢〕
→陽夏節侯〔没後〕 |
陣営・所属等 | 王莽→更始帝→光武帝 |
家族・一族 | 兄:馮孝 子:馮彰 馮訢 |
王莽のもとで穎川郡掾を務めていたが、穎川を攻略した劉秀に降った。このとき同郷の銚期らを推挙した。劉秀の河北転出に従い、邯鄲で銚期とともに属縣を慰撫し、かつ地方官で劉秀の敵味方となる者を密かに判別した。
更始2年(24年)、劉秀の薊縣脱出につき従って信都郡に至ると、偏将軍を拝命して王郎軍を討伐し、應侯に封ぜられた。さらに雑軍を掃討し、かつ匈奴の于林闟頓王を降した。また、雑軍の掃討を続ける劉秀は馮異を孟津将軍に、寇恂を河内太守に任じ、食糧の潤沢な河内を洛陽の劉玄軍から守らせた。馮異は洛陽の守将・李軼(李通の従弟)を内応させ、直後の戦闘で劉玄軍を潰走させた。
建武2年(26年)、陽夏侯に封ぜられ、また雑軍を討った。建武3年(27年)、赤眉軍との戦闘に功あって征西大将軍を拝命した。鄧禹と合同するも、逸る鄧禹らのため赤眉に大敗を喫したが、馮異は兵数万を呼び戻し再戦し、大勝して赤眉軍の八万を降伏させた。さらに延岑ら諸軍閥を撃ち南陽に敗走させて降兵八千を得、関中を平定した。
建武4年(28年)、蜀の公孫述の兵数万が関中に侵入してきたが、馮異はこれを迎撃して破った。その後も公孫述はしばしば関中を攻めたが、馮異はこれをことごとく打ち破った。建武6年(30年)、天水の軍閥・隗囂が、公孫述に侵攻しようとする漢軍と交渉決裂し、結果、劉秀に反した。馮異は隗囂の部将を破って北地郡の豪族を降した。また、北地太守を兼任することとなった。さらに甘粛の胡族一万を受降し、安定郡の盧芳・匈奴の薁鞬日逐王の軍を破った。上郡・安定郡を降し、安定太守をも兼ねた。
建武9年(33年)、祭遵が没したため、征虜将軍を兼任して祭遵の部隊を率いた。天水太守も兼任し、隗純(隗囂の遺子)を援護する公孫述の部将を討った。建武10年(34年)、陣没し、節侯と諡された。
[編集] 人柄・逸話
- 読書を好み、『左氏春秋』『孫子兵法』に通じていた。謙虚で功を誇らず、諸将の車に出会うと避けて道を譲った。進退は常識にかない、軍紀の正しいことで知られていた。
- 諸将が戦功とその褒賞を論議する際にはこれに加わらず、ひとり大樹の下に離れた。士卒は彼を「大樹将軍」と呼び、王郎を破った後の兵の再編成では士卒はみな「大樹将軍に属したい」と言った。
- 劉秀が兄の劉縯を劉玄に殺され、ひそかに悲嘆に暮れているのを慰めたが、却って咎められたことがある。劉秀は劉玄から警戒されていたため、兄の死を悼むことにつき隠忍せざるを得なかったのである。
- 劉秀即位の直前、馮異は以下のように述べた。
- 「更始の王たちが叛き、更始は破れました。天下に主なく、漢朝の存亡は大王に掛かっております。宜しく衆議に従い、上は社稷のため、下は万民のために即位なさるべきです」
- 劉秀は「私は昨夜、赤龍に乗り天に昇る夢を見た。目覚めると動悸がした」と言った。
- 馮異は「それは天命が大王の精神に働きかけて夢に顕われたのです。動悸は大王の慎重なお人柄によるものです」と応じた。
- 馮異は中央を離れて遠征軍を指揮し続けることで、朝廷での自らの地位が危うくなることを恐れた。帷幕で務めたいと光武帝に申し出たが、許されなかった。後に「馮異は関中で専制を行い、威権至って重く、衆望を集めています。民はかれを『咸陽王』と呼んでいます」と章を奉る者があった。その勢力が劉秀を凌ぐことを危惧されていたのである。この書を光武帝が馮異に送った所、馮異は、明主は知られる筈ですと上書して詫び、光武帝は「将軍の国家におけるや、義は君臣ではあるが、恩は父子の如し。将軍に何の嫌疑やおそれを抱くことがあろうか」と応じた。
- 劉秀が王郎の懸賞首として手配され、厳寒の河北で逃避行を続けていた頃、馮異が豆粥や麦飯などを供し、薪を運んだことがあった。劉秀は即位の後、「豆粥・麦飯の厚意に久しく報いていなかった」と詔して財物を下賜した。馮異は桓公・管仲の故事を引いて「河北での難事をお忘れなく。臣も穎川でお許し頂いたご恩を忘れません」と応じた。河北での逃避行から6年を経た建武6年のことである。