馬陵の戦い
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馬陵の戦い(ばりょうのたたかい、中国語 馬陵之戰 Mǎlíng zhī zhàn)は中国戦国時代にあたる紀元前341年、魏と斉が激突した戦い。斉の圧勝に終わり晋の後継者として天下の覇国たらんとした魏はこの戦いをさかいに衰微してゆき、斉は秦と並び大陸を二分する大勢力へと成長してゆく。
[編集] 事前の経緯
韓は桂陵の戦いで魏が敗退したのをみて斉と結び、魏と戦うことにしたが魏軍は韓の想像以上の底力をみせたため、韓は魏と五度戦って五度負けた。 逆に魏に滅ぼされそうになった韓は斉に援軍を求めた。斉の威王は信頼する孫臏を師将として派遣しようとしたが、孫臏はこれを断って田忌を推薦した。
田忌を師将とする斉軍は臨淄を発して魏に攻め込んだ。このため韓にいた魏軍は慌てて魏に引き返したため韓は救われた。
[編集] 孫臏の計略
魏将の龐涓は、以前孫臏と同門で兵法を学んでいた。龐涓は魏の将軍であったが、自分の才が孫臏に及ばないことを知っていたため、孫臏が魏に仕官しにきたときに罠にかけて両足を切断し、黥(いれずみ)を入れる刑に処させた。しかし斉の使者が魏に来たとき、孫臏は計略を用いてひそかに魏を脱出した。こうして、孫臏は田忌の配下の軍師となった。
孫臏は魏に侵攻した斉軍に十万の竈を作るように命じて軍を退いた。翌日は五万の竈を、その次の日は二万の竈を作るように命じ、どんどん退却していった。斉軍を追う龐涓は斉の野営地跡の竈の数が徐々に減っているのをみて「斉軍は臆病なので、われわれが魏に戻ったことに怖気づいて脱走者が続出しているのだろう」と考えた。そこで龐涓は一刻も早く斉軍に追いついてこれを蹴散らそうと考え、兵の装備を軽くし、昼夜兼行で行軍させた。
孫臏は魏軍の進行速度を予測して、夕方ごろに馬陵に至るだろうと考えた。そこで樹木の木肌を削って白く塗り「龐涓此の樹下に死せん。」と大書し、周囲に設置した伏兵に暗がりの中で火が見えたら一斉に矢を放つように命じた。夕方になって馬陵にたどり着いた魏軍はこの樹木を発見して指揮官の龐涓に知らせた。龐涓は書かれた字を読もうとしたが、暗くてよく見えない。そこで火をつけさせて字を読もうとした瞬間、周りから一斉に矢が飛んできた。龐涓は「遂に豎子の名を成せり。」と言って絶命した。
魏軍は大混乱に陥って敗れ、太子申は捕虜となった。
[編集] 事後
斉軍の司令官として戦功を上げて凱旋した田忌であったが、宰相の鄒忌の讒言によって威王に叛意を疑われてそのまま楚に亡命することとなった。
名将の龐涓を失った魏はこの戦いをさかいに国力が衰微し始め、秦の侵略を防ぎきれなくなってのちに魏の恵王は韓の昭侯とともに斉に従属することになる。
孫臏もこの戦いで復讐を終え消息を絶ち歴史上から姿を消した。一説によると兵法書を記していたとされている。
『戦国策』「巻23魏2斉魏戦於馬陵」によると、龐涓は斉軍に捕虜とされ太子申は戦死したと記されている。「戰于馬陵,魏師大敗,殺太子申、慮龐涓」(原文)。また、『孟子』によると、魏の恵王が晩年に孟子と会見した時に「私は先年、可愛い息子を陣没させ失ってしまった」と嘆いていたことが伝えられている。