顕証寺 (八尾市)
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顕証寺 | |
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本堂 |
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所在地 | 大阪府八尾市久宝寺4-4-3 |
位置 | 北緯34度37分36.65秒 東経135度35分14.40秒 |
山号 | 近松山 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 明応年間(1492~1501年) |
開基 | 蓮如 |
別称 | 久宝寺御坊 |
文化財 | 顕証寺長屋門・付属西長屋、東長屋、渡廊(市指定有形文化財) |
顕証寺(けんしょうじ)は、大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の仏教寺院。山号は近松山。久宝寺御坊ともいう。 寺の東側に立派な山門がある。また、かつて周囲に寺内町を形成し、現在もその町並みをとどめている。
目次 |
[編集] 歴史
- 飛鳥時代に、聖徳太子が「久宝寺」を創建したといわれている。しかし、いつしか廃寺となってしまった。
- 1469年(文明元年)、近江近松に蓮如が顕証寺を創建し、最初は長男順如、その死後は6男蓮淳に住事させる。これは後の本願寺派近松別院となる。この寺号は、後に久宝寺御坊顕証寺に引き継がれる。その証拠として、戦前まで近松別院は八尾の顕証寺が法要を勤めていた。
- 1470年(文明2年)に、蓮如上人が河内国渋川郡を訪れて布教活動を始める。当初は当地にあった慈願寺を本拠としたが、明応年間(1492~1501年)久宝寺跡に「西証寺」を建立した。このとき、近くにある久宝寺城主の安井氏は地域住民が一向宗に与するのを見計らい、地域支配を維持するために創建に協力している。蓮如の第21子実順を住持とし、ここを河内国一向宗の中心道場とした。しかし実順とその跡を継いだ実真は早世したため、近江顕証寺から蓮淳を迎え、そのときに「顕証寺」と寺号を改めた。
- 戦国時代に入ると、戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかるため、1541年(天文10年)頃に久宝寺御坊を中心に周囲に二重の堀と土塀を巡らし、その内側に碁盤目に道を巡らした寺内町を作った。寺内町では久宝寺御坊がいっさいの支配権をもち、安井氏がこの権利を委されていた。
- 戦国時代が終わると、本願寺の東西分裂に端を発して、1606年(慶長11年)、一部の住人は、安井氏と対立して久宝寺寺内町を出て、大和川(現在の長瀬川)の対岸、八尾の荒地を開墾し、大信寺(八尾御坊)を中心に八尾寺内町を作った。
- 1614年(慶長19年)から1615年(元和元年)にかけて徳川氏と豊臣氏が衝突した大坂冬の陣・大坂夏の陣において、この地域は主戦場のひとつとなり、辺りは焼き払われ、焼け野原になった。
- 現在の本堂は江戸中期・1716年ごろに再建されたとの記録がある。
- 江戸時代ごろは、八尾街道の中継地として栄えたが、1704年(宝永元年)の大和川付け替えを境に、地域の中心は八尾寺内町に移っていった。
[編集] 大谷家との関係
- 現在の住持は蓮如の子蓮淳を開基とし、大谷宗家に準ずる連枝格寺院である。又、連枝のなかで唯一歴代宗主(門主)を輩出している。
- 顕証寺第11代寂峰は、本願寺第16世湛如の急逝を受け、第17世法如として入寺。
- 顕証寺第13代暉宣の子は、一旦は顕証寺住職を継ぐも、本願寺第20世広如となる。広如の実子に第21世明如がいる。
- 顕証寺第14代摂真の子は、広如の養子に迎えられ徳如新門跡となったが、継職せず入滅。
- 顕証寺第16代近松尊定は、鏡如引退を受けて管長代理を務めた。
- 近代以降は近松氏を名乗っている。