陸軍分列行進曲
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陸軍分列行進曲(りくぐんぶんれつこうしんきょく)は、大日本帝国陸軍や陸上自衛隊、警察の行進曲として採用されている行進曲である。
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[編集] 概要
陸軍軍楽隊の招聘教官(所謂『お雇い外国人』)として来日した仏軍軍楽教官シャルル・ルルー によって1886年(明治19年)に作曲された。
ルルーはこの行進曲を作るに先立ち、西南戦争における警察官部隊の活躍に題材をとった軍歌「抜刀隊」と、「大日本帝国天皇陛下に献ず」と註した[2]「扶桑歌」という二つの曲を作っていた。
後にこの二つの曲がアレンジされて一つの行進曲となり[3]帝国陸軍の行進曲として使用された。
現在でも陸上自衛隊や警察の行進曲として使用されている。
[編集] 曲について
[編集] 前奏部
「扶桑歌」を使用した前奏部は、変ロ短調(編曲によってはヘ短調)[4]の勇壮な曲である。
力強い印象の中にも、戦場を志向する憂愁と当時の西欧から見たエキゾチシズムが織り込まれた名曲である。
[編集] 扶桑歌について
扶桑歌は抜刀隊とはまったく別の曲で、ルルーが日本で作曲したものを自らフランスに送り、日本滞在中の明治19年(1886年)にフランスから出版したものである。
A Sa Majesté L'EMPEREUR DU JAPON Fou So Ka MARCHE JAPONAISE pour PIANO PAR CH. LEROUX Chef de dans l'Armée Française. PRIX:5? Cette marche à été exécutée pour la 1? fois le 9 Novembre 1885. par la musique militaire des Kiododans. au Palais Imperial á Tokio (Japon). |
「日本国天皇陛下に捧ぐ 扶桑歌 日本の行進曲 ピアノ用 フランス軍軍楽長シャルル・ルルー作、1885年11月9日、東京の宮城において陸軍教導団軍楽隊により初演」
[編集] トルコの軍楽と類似している件について
トルコ軍楽「メフテル」の名曲、「ジェッディン・デデン CEDDİN DEDEN」[8]と、扶桑歌の前奏部が似ていると感じる人は多い。 [9] 短調の怖さをも帯びた憂愁と勇壮、冒頭部分のリズム運びや「ドードード、ド、ドド、ドbレドbシbラ・・・」といったメロディなどは似ている感じがする。このことから、扶桑歌がジェッディン・デデンに影響を受けていると見る向きもある。また、フランスで出版された「扶桑歌」の表紙デザインは、日月の旗と槍、日本刀などをあしらったものであり、この日月の旗などはトルコの新月旗を想起させるため、なんらかのつながりがあるのではないかとの印象を持たせる。
しかし、ジェッディン・デデンの作曲者アリー・ルザ・ベイ Ali Rıza Beyの生没年は1881年(明治14年)~1934年(昭和9年)であり、扶桑歌が初演された1885年(明治18年)にはわずか5歳である。扶桑歌よりもジェッディン・デデンの作曲のほうが後であることはほぼ疑いがない。
このことから、扶桑歌がジェッディン・デデンに似たのではなく、むしろ逆に、ジェッディン・デデンが扶桑歌に似たとも言い得る。
ただし、トルコ軍楽は、中世のオスマン帝国の遠征でヨーロッパの音楽、特に行進曲(マーチ)やブラスバンドに多大な影響を与えてそれらの起源とすらなっている。そのため、多くの行進曲はトルコ軍楽に似ている。この意味からは、トルコ軍楽に扶桑歌が似ていることも全て否定はし得ない。
[編集] トリオ部
軍歌「抜刀隊」を使用したトリオ部は、ハ短調で始まり、ヘ長調に転じて終わる。編曲によってはト短調で始まりハ長調で終わる。[10]
短調の凄愴な印象の曲が次第に力強く展開して長調の後半部へつながれてゆく。長調に転ずると、曲は明晰な印象のうちに感動を秘めつつ終わる。
トリオ部は「抜刀隊」の歌詞で歌うことができ、時々現れる短音階は日本人好みではあるものの、途中ハ短調からヘ長調への転調があり、歌いこなすのは少し難しい。[11][12]
[編集] 演奏の順序について
本来行進曲であるため、繰り返し演奏する。演奏によっては最後にもう一度前奏部を繰り返すこともある。
[編集] 作曲について
トリオ部の一部のフレーズ(ララソラ、ファソラ、シシシシ、シ、ドドシラ、ラララ、ファファレレ、ド 『進めや進め 諸共に 玉散る剣抜きつれて』)は、ルルーが日本の音楽を聞き取って採譜したらしい「小娘」という曲にも現れる。[13]一方、「一かけ二かけ」という女児の古い遊び歌[14]があり、この歌を短調にすると、トリオ部の冒頭部分(『我は官軍我が敵は』ラ・ミ・ミ、ミ・ミ、ファ・ファ・レ・ファ、ミ)との若干の類似が感ぜられる。また、「一かけ二かけ」の歌詞が、軍歌「抜刀隊」のテーマと同じ西郷隆盛を題材にとっていることなどから、ルルーが日本の俗謡等のメロディや時代背景に影響を受けつつ、イマジネーションを膨らませてこの曲を作ったとの論も成り立つ。
一方、後述するように、「抜刀隊」のメロディは、明治期においてきわめて多くの俗謡・軍歌に歌い崩されて織り込まれている。したがって、逆に、ルルーが革新的に普及させた西洋音楽のメロディの代表である「抜刀隊」が、明治期以降の日本の俗謡などに多大な影響を与えていったとの見方もできる。
いずれの立場をとるにせよ、ルルーが日本の空気や民俗的なメロディを「陸軍分列行進曲」に充分に反映し、また他に反映させたものと言える。
[編集] 歌劇「カルメン」と類似している件について
ビゼー作曲の歌劇「カルメン」第2幕のカンツォネッタ「Les Dragons d'Alcala」(『アルカラの竜騎兵』『ドン・ホセの軍歌[15]』『スペインの兵隊の唄《Holte lo!Qui va la?》[16]』『兵隊の歌[17]』とも)と主旋律に共通点があるとする意見[18][19]がある。
ビゼー「カルメン」第2幕の「カンツォネッタ」のうち、「抜刀隊」が似ていると言われている部分のメロディ
カルメンのフランス初演が明治8年、ルルーの来日が明治17年(1884年)であり、ほぼ同時期であることから、ルルーが「カルメン」の影響を受けたことも充分考えられる。[20]
ルルーがフランスで出版した抜刀隊のメロディを含む自己の作品中において、このカルメンのカンツォネッタと似ている部分を巧みに隠しているふしがあり、「ルルー自身も『カルメン』との関連を認めていることをはからずも証明する」との研究[21]もある。
しかし、いずれにせよ、酷似しているとまでは言い難く、同一の曲とは言い得ない程度の類似である。[22]
[編集] 編曲の経緯
「扶桑歌」の後部が切除され、その代わりに「抜刀隊」が現在の形で挿入された。その後、明治35年に更に中部が切除され、前奏後からすぐに「抜刀隊」の旋律に入るように改められ、現在の形となった。 [23]
もとの「扶桑歌」は陸軍分列行進曲では前奏のみに残り、トリオ部分は完全に切除されて「抜刀隊」がメインになった。[24]
一方、明治45年出版の楽譜では、「扶桑歌の前奏 → 『bシ~bミーソ・bミーレー・bラ~ドーレ・ドーbシー』で始まる扶桑歌のトリオの繰り返し → 抜刀隊のトリオ」・・・の順番で編曲されており[25]、当時、どこからどこまでが「抜刀隊」で「扶桑歌」なのか、また、陸軍分列行進曲がどの編曲を言うものかはっきりしてはいなかったことがわかる。
現在でも「陸軍分列行進曲」が「扶桑歌」と呼ばれることもあるのはこうしたことがあるためである。[26]
現在の市販のCD等における陸軍分列行進曲のアレンジは、「『扶桑歌の前奏』→『抜刀隊のトリオ』→もう一度『扶桑歌の前奏』」で定着している。 [27]
[編集] その他
- 行進曲としてのこの曲を、まとめて「抜刀隊」あるいは、「扶桑歌行進曲」[28][29]等と呼ぶ向きも少なくない。市販されているCDなどでも、「抜刀隊」「抜刀隊行進曲」「扶桑歌」「扶桑歌行進曲」「分列式行進曲」「観兵式分列行進曲」・・・等々さまざまに題されている。正しい呼び方の定説は、若干の論争もあり、はっきりしていない。
- この曲は、フランス陸軍軍楽隊の礼式曲のなかに今もあるという。[30]
- さきの大戦中の昭和18年、内閣情報局が敵性国家の音楽一掃を命じた時、米・英の音楽はもちろん、かつて日本陸軍に奉職していた軍楽長とはいえ、フランス人であるルルーの音楽もその対象となるはずであった。ところが、陸軍の象徴である「分列行進曲」が消滅しては困るので、作曲者の名前が伏せられて、堂々と演奏された。[31]
- 「抜刀隊」のメロディは人口に膾炙し、次第に歌い崩されて他の曲となり、「ノルマントン号沈没の歌」「月と花とは昔より」「らっぱ節」「松の声」「奈良丸くづし」「青島ぶし」等の俗謡や[32][33]軍歌「ああ我が戦友」に類型を残している。
[編集] 脚注
- ^ 『音楽界』148号、音楽出版社、大正3年(1914年)2月
- ^ 堀内敬三『音楽五十年史』ISBN 4-06-158138-4(昭和52年6月10日講談社・講談社学術文庫)p.133
- ^ 江藤淳『南洲残影』ISBN 4-16-353840-2に編曲の経緯が詳しい。
- ^ シャルル・ルルー作曲・瀬戸口晃編曲『扶桑歌 : 観兵式分列行進曲』共同音楽出版社〈共同版ブラスバンド楽譜〉、昭和35年(1960年)表紙裏の解説
- ^ 堀内敬三『音楽五十年史』ISBN 4-06-158138-4(昭和52年6月10日講談社・講談社学術文庫)p.133
- ^ 扶桑歌の古い演奏の復刻は、「CD『お雇い外国人の見た日本~日本洋楽事始』」で聞くことができる。同CDにおける前田健治氏演奏による「扶桑歌」は、掲出の楽譜に忠実に演奏された重要な録音である。
- ^ 中村理平『洋楽導入者の軌跡-日本近代洋楽史序説-』刀水書房p.605~p.615に詳しい。また、同p.615にはその楽譜の表紙写真がある。
- ^ ジェッディン・デデン - YouTube
- ^ 例えば、「陸軍分列行進曲は鹿鳴館に響いた哀歌」などでも類似感について触れられている。
- ^ シャルル・ルルー作曲・瀬戸口晃編曲『扶桑歌 : 観兵式分列行進曲』共同音楽出版社〈共同版ブラスバンド楽譜〉、昭和35年(1960年)表紙裏の解説
- ^ 金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌〔下〕 学生歌・軍歌・宗教歌篇』講談社文庫、ISBN 4-06-131370-3、119ページに軍歌としての「抜刀隊」に関する詳述がある。
- ^ 堀内敬三『定本日本の軍歌』実業之日本社〈実日新書〉、昭和52年(1977年)p.35~36
- ^ CD「お雇い外国人の見た日本~日本洋楽事始」収録中、12曲目「小娘」
- ^ 一かけ二かけて
- ^ CD『お雇い外国人の見た日本~日本洋楽事始』キングインターナショナル、平成13年(2001年) 、付属ブックレットp.7
- ^ 堀内敬三『定本日本の軍歌』実業之日本社〈実日新書〉、昭和52年(1977年)p.37
- ^ 金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌〔下〕学生歌・軍歌・宗教歌篇』講談社〈講談社文庫〉、昭和57年(1982年)、ISBN 4-06-131370-3、p.119
- ^ 堀内敬三『ヂンタ以來』アオイ書房、昭和9年(1934年)p.59
- ^ 堀内敬三『定本日本の軍歌』実業之日本社〈実日新書〉、昭和52年(1977年)p.37
- ^ 長田暁ニ「日本軍歌全集」(昭和51年10月20日 音楽之友社)p.480
- ^ 中村理平『洋楽導入者の軌跡-日本近代洋楽史序説-』刀水書房p.594~p.595
- ^ CD『Bizet. Chabrier. Faure』サー・トーマス・ビーチャム、EMIミュージックジャパン、平成19年(2007年)(トラックNo.2、Carmen,SUITE NO 1:Entr'acte, Act 2 "Les dragons d'Alcala")
- ^ 堀内敬三『ヂンタ以來』アオイ書房、昭和9年(1934年)p.52~p.53に、 「(前略)「扶桑歌」行進曲の中のトリオの部分をカットして其の代りに「拔刀隊」の曲をトリオにした行進曲があるのです。これは大正五年にセノオ楽譜から出た「観兵式行進」の初版がそれです。此の譜の中では既に「拔刀隊」の旋律が現形になつてゐます。此の行進曲は「扶桑歌」と「拔刀隊」との合成です。即ち序奏と主部が「扶桑歌」、トリオが「拔刀隊」です。明治35年5月に陸軍省で制定した分列行進曲は此の「扶桑歌」及び「拔刀隊」合成の行進曲から主部を省き、序奏から直にトリオ(即ち「拔刀隊」のふし)に入る様になつてゐます。ですから「扶桑歌」の名残りはたヾ序奏だけになつてしまつたのですが、陸軍にある吹奏楽用總譜にそれでもなほ Fou - so - ka の題がついてゐるのです。正に「扶桑歌」行進曲は「拔刀隊」に廂を貸して母屋にとられちまつたのです。セノオ楽譜の「観兵式行進」の第二版以後のものは此の方の譜です。 ですから、「扶桑歌」と「拔刀隊」とは實際上では名稱がごちやごちやになつてしまつたのです。」 ・・・とある。
- ^ 堀内敬三『音楽五十年史』ISBN 4-06-158138-4(昭和52年6月10日講談社・講談社学術文庫)p.133~p.134
- ^ 瀬戸口軍楽長校閲・音楽社編輯局編曲『扶桑歌 分列式行進曲』音楽社〈音楽社蔵版〉、明治45年(1912年)
- ^ 堀内敬三『音楽五十年史』ISBN 4-06-158138-4(昭和52年6月10日講談社・講談社学術文庫)p.133~p.134
- ^ 陸上自衛隊サイト内の映像・画像・音楽ギャラリー(ページ後段近くの「行進曲」カテゴリから陸軍分列行進曲がダウンロードできる。)このリンクにある陸軍分列行進曲のアレンジも「『扶桑歌の前奏』→『抜刀隊のトリオ』→もう一度『扶桑歌の前奏』」である。
- ^ 例えば、ビクターの品番「50276-B」というレコード(新交響楽団演奏・近衛秀麿指揮、昭和3年録音)では、この曲が「観兵式分列行進曲『扶桑歌』」と題されている。
- ^ 共同音楽出版社の吹奏楽総譜のシリーズ(昭和35年5月15日)では、この曲が「行進曲『扶桑歌』観兵式分列行進曲」と題されている。
- ^ 坂本圭太郎『物語・軍歌史 音楽の中の戦いのうた』(昭和59年4月25日 創思社出版)p.18
- ^ 長田暁ニ「日本軍歌全集」(昭和51年10月20日 音楽之友社)
- ^ 堀内敬三「定本日本の軍歌」(昭和52年11月10日 実業之日本社)p.36
- ^ 堀内敬三『音楽五十年史(上)』講談社〈講談社学術文庫〉、昭和53年(1978年)、p.133
[編集] 参考文献等
- 阿部勘一・細川周平・塚原康子・東谷護・高澤智昌『ブラスバンドの社会史 軍楽隊から歌伴へ』青弓社〈青弓社ライブラリー〉、平成13年(2001年)、ISBN 4-7872-3192-8
- 江藤淳『南洲残影』文芸春秋〈文春文庫〉、平成13年(2001年)、ISBN 4-16-353840-2
- 長田暁二『日本軍歌全集』音楽之友社、昭和51年(1976年)
- 金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌〔下〕学生歌・軍歌・宗教歌篇』講談社〈講談社文庫〉、昭和57年(1982年)、ISBN 4-06-131370-3
- 坂本圭太郎『物語・軍歌史』創思社出版、昭和59年(1984年)
- シャルル・ルルー作曲・瀬戸口晃編曲『扶桑歌 : 観兵式分列行進曲』共同音楽出版社〈共同版ブラスバンド楽譜〉、昭和35年(1960年)
- 瀬戸口軍楽長校閲・音楽社編輯局編曲『扶桑歌 分列式行進曲』音楽社〈音楽社蔵版〉、明治45年(1912年)
- 中村理平『洋楽導入者の軌跡-日本近代洋楽史序説-』刀水書房、平成5年(1993年)、ISBN 4-88708-146-4
- 堀内敬三編『童謡唱歌名曲全集續篇・明治回顧軍歌唱歌名曲選』京文社、昭和7年(1932年)
- 堀内敬三『ヂンタ以來』アオイ書房、昭和9年(1934年)
- 堀内敬三『定本日本の軍歌』実業之日本社〈実日新書〉、昭和52年(1977年)
- 堀内敬三『音楽五十年史(上)』講談社〈講談社学術文庫〉、昭和53年(1978年)
- 堀雅昭『戦争歌が映す近代』葦書房、平成13年(2001年)
- 『音楽界』148号、音楽出版社、大正3年(1914年)2月
- CD『お雇い外国人の見た日本~日本洋楽事始』キングインターナショナル、(品番KKCC 3001 KDC-1)平成13年(2001年)
- CD『Bizet. Chabrier. Faure』サー・トーマス・ビーチャム、EMIミュージックジャパン、平成19年(2007年)