陰識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
陰識(いん しょく、? - 59年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将、政治家。後漢草創期の功臣の1人である。字は次伯。荊州南陽郡新野県の人。陰皇后(陰麗華)の異母兄で、光武帝の義兄。父は陰陸。異母弟に陰興、陰訢、陰就。子に陰躬。従兄弟に陰嵩。管仲の末裔とされる。
目次 |
[編集] 事跡
[編集] 初期の事跡
姓名 | 陰識 |
---|---|
読み・ピンイン | いんしょく〔Yīn Shí〕 |
時代 | 新代 - 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 59年(永平2年) |
字・別号 | 次伯(字) |
本貫・出身地等 | 荊州南陽郡新野県 |
職官 | 校尉〔舂陵軍〕→偏将軍〔更始〕 |
爵位・号等 | 陰徳侯〔更始〕→陰郷侯〔後漢〕
→原鹿侯〔後漢〕→原鹿貞侯〔没後〕 |
陣営・所属等 | 劉縯→更始帝→光武帝 |
家族・一族 | 父:陰陸 異母弟:陰興 陰訢 陰就 |
地皇3年(22年)、劉縯が舂陵(南陽郡)で挙兵すると、当時長安に遊学していた陰識はこれを聞いて学業を棄てて帰り、子弟・宗族・賓客1千人余りを率いて劉縯に参じ、校尉に任命された。
更始1年(23年)、劉玄が更始帝として即位すると、陰識は偏将軍に任命され、劉縯に従って宛を攻略し、また、新野・淯陽(育陽)・杜衍・冠軍・湖陽の南陽郡5県を接収している。翌更始2年(24年)、陰識は更始帝から陰徳侯に封じられ、行大将軍事となる。その後、南陽は樊崇率いる赤眉軍に荒されることになり、新野から陰麗華ら一族を率い、陰識は客将として淯陽で挙兵した鄧奉に身を寄せていた[1]。
[編集] 漢での事跡
建武1年(25年)、劉秀が光武帝として即位すると、陰麗華が淯陽から洛陽に迎え入れられ、陰識もあわせて招聘され、騎都尉に任命され、陰郷侯に封じられた。翌建武2年(26年)、陰識は執金吾賈復に属し、郾(頴川郡)王尹尊を攻めてこれを降した。同年、軍功により封土を加増されたが、「天下は定まり始めたところであり、将帥で功有る者は大勢います。私は陛下の親族でありますから、さらに加増いただきましては、天下に示しがつきません」と陰識は叩頭して辞退した。光武帝はこれを賞賛し、陰識を関都尉に任命し、函谷関を守備させた。さらに侍中に転任したが、母の死に伴い帰郷している。
建武15年(39年)、原鹿侯に転封された。劉荘(後の明帝)が皇太子として立てられると、陰識は守執金吾(執金吾代理の意)となり、皇太子の輔導を任されている。光武帝が諸国を巡回する際には、陰識が常に洛陽の留守を任され、禁軍の兵を委ねられた。明帝が即位すると、陰識は正式に執金吾に就任し、位は特進となった。
永平2年(59年)、死去。本官の印綬とあわせて貞侯の謚号が贈られた。
[編集] 人物像
陰識は、朝廷では言葉を尽くして正論を唱えたが、朝廷から離れて賓客と話すときは、国事を一切話題にしなかった。光武帝も陰識を敬重し、他の皇族・親族に陰識を見習うよう諭し、また左右を激励した。陰識が任用する吏員は優れた人材で、彼らの多くは、後に公卿や校尉になったという。
[編集] 注
- ^ 行大将軍事が、地元の新野から淯陽に移り、挙兵した軍の客将になるということは、南陽が動乱し、更始帝の権威が失墜している時期でなければ起りえない。また、同じ頃、宛王であった劉賜も配下に叛かれ、宛から育陽(淯陽)に移っている。