阿部定高
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 寛政12年(1635年) | |||
死没 | 万治2年1月23日(1659年3月16日) | |||
別名 | 千勝(幼名)、正貞、貞勝、成利(別名) | |||
墓所 | 埼玉県岩槻市加倉の浄国寺 | |||
戒名 | 普広院孝誉寂照閑清 | |||
官位 | 従五位下、備中守 | |||
藩 | 武蔵岩槻藩主 | |||
氏族 | 阿部氏 | |||
父母 | 父:阿部重次、母:松平定勝の娘 | |||
兄弟 | 阿部定高、阿部正春 | |||
妻 | 正室:松平定頼の娘 | |||
子 | 六丸、阿部正邦 |
寛永12年(1635年)、第2代藩主・阿部重次の子として生まれる。慶安4年(1651年)に父・重次が江戸幕府第3代将軍・徳川家光に殉じたため、家督を継いで第3代藩主となる。このとき、弟の阿部正春に新田1万6000石、従弟の阿部正令に6000石を分与したため、岩槻藩の所領は9万3000石となった。11月17日に日光山御造営奉行に任じられ、12月29日に従五位下・備中守に叙位・任官される。
慶安5年(1652年)7月24日に正令が新田6000石を定高に返還したため、岩槻藩は再び9万9000石となる。明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼失した江戸城二の丸の普請奉行も務めた。
万治2年(1659年)1月23日に死去。享年25。このとき、家臣の小倉政光が殉死している。
定高には実子に阿部正邦がいたが幼少のため、家督は弟の阿部正春が継ぐこととなった。
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