阿房宮
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阿房宮(あぼうきゅう)
阿房宮(あぼうきゅう)とは、秦の始皇帝が建てた宮殿である。咸陽とは渭水をはさんで隣に位置していた。遺跡は陝西省西安市西方13kmの阿房村に残っている。始皇帝の死後も工事が続いたが、秦の滅亡によって未完のままで終わった。名称がなかったのを世人が地名にちなんで阿房宮となづけた。阿房宮の増設により国を疲弊させたことから、阿呆(あほう、アホ)の語源であるという説が言われているが、その信憑性は疑問視されている。
始皇帝が即位すると、孝公がたてた咸陽の宮殿は狭小であるとして、渭水の南にあたる上林苑にあらたな宮殿を建てる計画をたてた。阿房の地に前殿をつくろうとしたが、始皇帝の生前に完成しなかった。
『史記』によると、前殿建築物の規模は東西五百歩つまり3000尺・南北五十丈つまり500尺という。なおメートル法に換算すると、乗数に諸説があるため東西600-800m・南北113-150mなどの幅がある。ウィキペディア中国語版では693mと116.5mと記述されている。
その殿上には10000人が座ることができ、殿下には高さ5丈の旗をたてることができた。殿外には柵木をたて、廊下をつくり、これを周馳せしめ、南山にいたることができ、複道をつくって阿房から渭水をわたり咸陽の宮殿に連結した。これは天極星中の閣道なる星が天漢すなわちあまのがわをわたって、営室星にいたるのにかたどったものである。その建築に任じた刑徒の数は70余万にのぼった。なおも諸宮をつくり関中に300、関外に400余、咸陽付近100里内にたてた宮殿は270に達した。このために民家30000戸を驪邑に、50000戸を雲陽にそれぞれ移住せしめた。各6国の宮殿を摹造し、6国の妃嬪媵嬙をことごとくこれに配し、秦の宮殿をつくって秦の佳麗をこれに充てた。そこで、趙の肥、燕の痩、呉の姫、越の女等それぞれ美を競って朝歌夜絃、「三十六宮渾べてこれ春」の光景をここに現出せしめた。杜牧の「阿房宮賦」にうたわれたのはかならずしも誇張ではない。
『史記』の秦の滅亡に関する記述から、「阿房宮は楚の項羽に焼かれた」(3ヶ月間、火が消えなかったという)というのが現代までの定説だった。しかしながら、「項羽によって焼かれたのは咸陽宮であって、阿房宮は焼かれていない」という説が2003年に公表された[1]。
なお、現在付近に阿房宮を再現した施設が作られ、一種のテーマパーク的な観光名所となっている。