長平の戦い
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長平の戦い(ちょうへいのたたかい、中国語 長平之戰 Chángpíng zhī zhàn)は中国戦国時代の紀元前260年に秦と趙が長平(現山西省高平県の近く)で激突した戦い。秦の勝利に終わり、戦後に秦の白起将軍により趙兵40万が生き埋めにされて処刑(坑殺)され、趙の国力が一気に衰える原因となった。
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[編集] 背景
当時、秦は商鞅の改革によって強盛を誇るようになり、戦国七雄の中でも圧倒的な強国となっていた。その力を背景に他の六国、特に国境を接する韓・魏・趙・楚へ何度も侵攻していた。
紀元前265年、秦は白起将軍を派遣し、韓の野王(現河南省沁陽県)を落とした。このことにより、韓の北方の領土である上党郡は孤立してしまった。そこで上党郡の守である馮亭は上党郡を趙へ献上しようとした。
趙の孝成王はその当時の趙の実力者である平原君と平陽君に意見を求めた。平陽君は「秦との戦争となるのは明白であり、献上を拒否したほうがよい」と意見を述べ、平原君は「ひとりの血も流さず、一粒の金も捨てずに領地が得られるのに、なぜ悩むのか?早く献上を了承したほうがよい」と意見を述べた。孝成王は悩んだ末、平原君の献上を了承する方針を可とし、兵を送って上党郡を接収した。
秦の昭襄王はこれに怒り、紀元前262年、王齕(おうこつ)を将軍とした遠征軍を趙に差し向け、上党を占領した。上党の人々は趙の長平に逃げ込み、王齕軍はこれを追ってそのまま趙に攻め入った。これに対し孝成王は老将・廉頗を総大将に任命し、防衛体制を整えさせた。
[編集] 対峙
廉頗は持久戦の構えを見せ、王齕も良く攻めて趙の将を幾人も討ち取ったが、戦いは長引き、2年の歳月が過ぎた。秦軍には疲れと焦りが出ていた。秦の宰相・范雎は状況を打開すべく趙の国内に間者(スパイ)を送り、「秦は趙括が趙軍の指揮を取ることを恐れている。老人の廉頗であれば組しやすい」というデマを流した。
これを信用した孝成王は、藺相如の諌めを無視して廉頗を解任し、趙括を召還して総大将に任命した。趙括は趙の名将趙奢の子で、自他ともに認める兵法の大家だったが、実際には実戦経験のない机上の兵法家で、兵法書を丸暗記しているというだけの人物であった。それは父親である趙奢も見抜いており、生前妻に「王が趙括に大任を任された時には、辞退するように」と伝えていた。そのため、趙括が総大将に選ばれた時、趙奢の妻は参内し、孝成王に趙括を総大将として派遣しないようにと嘆願した。だが孝成王は趙括を総大将として派遣させることは変更しないと断った為、趙奢の妻は「では趙括が敗北しても、一族に罪が及ばないようお願いします」と懇願し、これを孝成王に約束させた。 一方、秦は趙軍の総大将の交代を知ると、白起を長平に派遣して総大将に任じ、王齕を彼の副将とした。
[編集] 趙軍の大敗北
着任した趙括は、味方が大軍であることを頼みに、数に劣る秦軍を一気に叩き伏せようと考え、廉頗の戦法を変更して秦の本陣に向かって突撃した。白起は退却すると見せかけて趙軍を誘い出し、伏兵を用いて趙軍を分断すると、そのまま趙軍の糧道を断ってしまった。これを知った秦の昭襄王は白起に援軍を送り、兵糧が趙軍に一切届かないように計らった。その結果、趙軍には46日間も兵糧が届かず、飢えた兵士たちは互いに殺し合ってその肉を食らい、飢えをしのぐありさまであった。これに焦った趙括は手勢を率いて秦軍の囲みを破ろうとしたが、矢を射られてハリネズミのようになって戦死する。残る趙兵40万はついに降伏した。
白起は、兵糧が足りず捕虜が反乱を起こすことを恐れ、少年兵240名ほどを除いて趙兵を全て生き埋めにした。この戦いでの趙の戦死者・被処刑者は45万に上るという。
[編集] 戦後
秦軍は白起の功績に脅威を抱いた范雎によって一旦は進撃を止めたが、後に再び趙へ侵攻し、首都邯鄲を包囲した。この包囲戦は平原君らの活躍と魏の信陵君・楚の春申君などの協力により切り抜けることが出来たが、長平で大量の兵士を失ったことから、もはや秦に対抗することは絶望的となった。
一方、秦の白起は皮肉にもこの戦いの功績によって范雎らに妬まれる結果となり、のちに自害させられることになる。