長崎高資
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長崎 高資(ながさき たかすけ、生年不詳 - 元弘3年/正慶2年5月22日〔1333年7月4日〕)は、鎌倉時代後期の武将で、北条氏得宗家の被官(御内人)。内管領長崎高綱(円喜)の嫡男。正式な名乗りは平高資(たいら・の・たかすけ)。子は長崎高重。
[編集] 生涯
1317年(文保元年)頃、父・高綱から内管領の地位を受け継ぎ幕府の実権を握った。『保間略記』によれば、1322年(元亨2年)頃におきた奥州安東氏の内紛に際し、当事者双方から賄賂を受け取り、その結果紛争の激化(蝦夷大乱)を招き、幕府の権威を低下させたという。
1326年(嘉暦元年)には、出家した執権北条高時の後継をめぐり得宗家外戚の安達氏と対立し、高資は高時の子邦時が長じるまでの中継ぎとして北条一族の金沢貞顕を執権としたが、高時の弟泰家らの反対により貞顕はまもなく辞任して剃髪、赤橋守時を執権とした(嘉暦の騒動)。
1331年(元弘元年)には高資の専横を憎む高時はその排除を図ろうとしているという風説が広まり、高時側近が処罰される。高時は自らの関与を否定し処分を免れた。専横を極めた高資に対しては得宗家であっても無力であった。
1333年(元弘3年/正慶2年)新田義貞に鎌倉を攻められた際、北条一族とともに鎌倉東勝寺で自害して果てた。