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野呂介石 - Wikipedia

野呂介石

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

倪雲林詩意山水図 野呂介石筆
倪雲林詩意山水図 野呂介石筆

野呂介石のろ かいせき延享4年1月20日1747年3月1日) - 文政11年3月14日1828年4月27日))は、江戸時代後期の日本の文人画家である。紀州藩に仕え、祇園南海桑山玉州とともに紀州三大南画家と呼ばれている。

ははじめ休逸(きゅういつ)であったが、のちに改名して(りゅう)または隆年(りゅうねん)のふたつの名を混用した[1]を松齢(しょうれい)、は介石のほかに班石(はんせき)、十友窩(じゅうゆうか)、澄湖(ちょうこ)、混斎(こんさい)、台嶽樵者(だいがくしょうしゃ)、第五隆(だいごりゅう)、晩年になって矮梅居(わいばいきょ)、四碧斎(しへきさい)、四碧道人(しへきどうじん)、悠然野逸(ゆうぜんやいつ)と号している。通称を弥助(やすけ)、後に九一郎(きゅういちろう)、喜左衛門(きざえもん)[2]と称した。

目次

[編集] 生涯

紀州和歌山城下の湊紺屋町、町医 野呂高紹[3]の三男として生まれる。10歳の頃より藩儒 伊藤長堅(蘭嵎)に儒学を学んだ。墨竹などの画を好み、中国の画法を独学しようとしたが進まず、14歳にて京都に出て黄檗僧 鶴亭(海眼淨光)について長崎派の画法を修める。一旦郷里に戻るが再び上京し、21歳の時、池大雅について南画の技法を修得した。京都と和歌山を行き来しながらおよそ10年もの間、毎日山水画十景を画くことを日課とした。25歳のときには大雅の妻 玉蘭が和歌山を訪問している。師を深く敬愛したが、28歳の時大雅を失う。このころの来舶商・画家 伊孚九に私淑し影響を受けている。大坂木村蒹葭堂や紀州の先輩 桑山玉州とも親しく交流し画業の研鑽に励み、名を成すようになる。34歳の時再婚したが花嫁は17歳年下の士族の出身であった。

終生を京都で過ごそうとしたが、藩命によって仕官することとなり46歳のとき紀州に戻った。勘定奉行支配小普請として医業を以て藩に仕え、のちに銅山方なって領内各地を踏査している。本草学にも詳しかったようである。江戸には2度赴いた記録があるが、晩年には江戸詩壇の大窪詩仏、菊池五山との交わりがあった。その他に頼山陽、頼杏坪、篠崎小竹田能村竹田本居大平などの交友が伝えられる。

1810年、大和多武峰千手院に所蔵される黄公望の「天地石橋図」を臨模したことを多いに喜んでいる。

公務で熊野の山中に分け入り、深山幽谷に数十日もあって山水の趣を体得したという。画は人のためでなく己の楽しみのためとし、胸中に真山水を貯えれば、自ずと手が応じてるとして、写意のある画を求道した。墨竹図・山水図を得意としたが、特に熊野山中を描いたものが多く那智の瀑布は現在までに十数点確認されている。

兄と慕うひとつ上の桑山玉州とともに南画会の双璧と評されている。また長町竹石、僧愛石とともに「三石」とも称されている。

享年82。法号 四碧院節翁介石居士。和歌山市吹上護念寺に墓碑がある。

[編集] 号の由来

  • 四碧齋の号は、藩侯が彼の那智山図を見て嘆賞し「山色四時碧」の一行物を下賜したことを記念したもの。
  • 矮梅居の号は、仕官して2年目に賜った居宅に老梅があったことから。
  • 第五隆の号は、の第五倫の人となりを慕ったことから。三男だったが姉二人を入れると五番目の子であった。

[編集] 作品

[編集] 門弟

  • 僧愛石
  • 村瀬秋水
  • 呉克明
  • 野際白雪

[編集] 関連文献

  • 『四碧斎画話』(門人が記録したもの)
  • 木村蒹葭堂『蒹葭堂日記』
  • 田能村竹田『竹田荘師友画録』
  • 朝岡興禎『古画備考』
  • 白井華陽『画乗要略』
  • 玉置百齢『三名家略年譜』
  • 木村風乎『介石小談』
  • 横井鐡叟『介石雑話』
  • 「紀伊人物誌」『南紀徳川史』

[編集] 出典

  • 中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』新潮社、2000年、518 - 519頁、ISBN 4103155213
  • 大槻幹郎『文人画家の譜』ぺりかん社、2001年、251 - 253頁、 ISBN 4831508985
  • 森銑三「野呂介石」『森銑三著作集』第3巻 中央公論社、1971年。
  • 山下善也「描かれた富士—イメージ変遷と諸相」『富士信仰研究』第2号、岩田書院、2001年。

[編集]

  1. ^ (森 1971年、311頁)
  2. ^ 安永8年の『蒹葭堂日記』に野呂喜左衛門という人物の訪問記録があり、高梨光司『蒹葭堂小伝』では介石と同定している。ほかには介石が喜左衛門と称した所見がない。(中村 2000年、518ページ)
  3. ^ 方紹とする文献もある(森 1971年、311頁)
  4. ^ 赤富士を描いた最初の画と推定されている。(山下 2001年)


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