道祖王
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道祖王(ふなどのおおきみ、生年不詳 - 天平勝宝9年(757年)7月)は奈良時代の皇族。新田部親王の子で天武天皇の孫。
天平9年(737年)従四位下、中務卿。天平12年(740年)従四位上に進む。
天平勝宝8歳(756年)5月、聖武太上天皇が崩御すると、その遺詔で道祖王が孝謙天皇の皇太子に立てられる。天平勝宝9歳(757年)3月、孝謙天皇(実は光明皇太后の意思)は、道祖王が太上天皇の喪中にも関わらず侍童と密通して、民間に機密を漏らし甚だ不行跡であるとし、廃太子を議した。右大臣藤原豊成以下の群臣はこれに賛同した。道祖王は春宮坊(東宮御所)を夜一人で引き払い「自分は愚か者で皇太子なぞ務まらない」と放言した。
4月、孝謙天皇は更に新太子の選定を議さしめ、右大臣豊成は道祖王の兄の塩焼王を適当とし、摂津大夫文屋珍努と左大弁大伴古麻呂は池田王(天武天皇の皇子舎人親王の子)を推した。紫微令の藤原仲麻呂は帝が選ばれるべきと提議した。孝謙天皇は道祖王が不行跡で廃されたのだから兄の塩焼王は不適当であるとし、舎人親王の家系では船王は閨房が定まらず、池田王は親不孝であるとし、大炊王のみが悪い噂を聞かないので大炊王を皇太子に立てるべきとした。群臣はこれに従った。
大炊王は仲麻呂の自邸に住んでいるのみならず、早世した長男眞従の未亡人である粟田諸姉を妻としており、大炊王の立太子は仲麻呂の強い希望であった。仲麻呂は紫微内相(大臣に准じる)に進む。
仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘奈良麻呂で、大伴古麻呂らと一味して兵を起こして仲麻呂を殺し、孝謙天皇を廃して、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴しようと計画した。7月、この計画は密告によって露見し、奈良麻呂、古麻呂、黄文王らをはじめ、前皇太子の道祖王も謀反に関わったとして捕えられた。道祖王は名を麻度比(惑い者)と改名させられ、藤原永手、百済王敬福、船王らの監督下、杖で激しく叩かれる拷問を受けた末、獄死。(橘奈良麻呂の乱)