進学課程 (医歯学部)
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医学部進学課程(いがくぶしんがくかてい)および歯学部進学課程(しがくぶしんがくかてい)は、1955年以降に医学部ないし歯学部への進学のために設置された高等学校の卒業生を対象に一般教養教育・語学教育・基礎教育(基礎医学教育ではない、物理特論や統計学など)を行う修学年限2年間の課程。医学部・歯学部とは別の組織であり、進学課程を修了すればほぼ無条件に同一大学の医(歯)学部に進学できた。大学によっては進学課程をおかず、大学2年修了者を対象に一般入試を行ったところもある(現在の航空大学校と同じシステム)が、その後全ての大学に進学課程が設置された。
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[編集] 進学課程設置の背景
[編集] 旧制医学専門学校の旧制大学昇格
第二次世界大戦の終戦後、医学・歯学教育は大学教育で行うことになり、旧制医学専門学校・旧制歯科医学専門学校は旧制大学へ昇格するか戦後特設高校に転換するか廃止することになった。しかし、終戦後に旧制大学に昇格した医科大学の多くは、旧制高校卒業生の学生獲得が困難と判断されたため、1946年から1947年にかけて旧大学令による付属の大学予科(三年制)を設置した。
[編集] 学制改革後の過渡期
連合国軍最高司令官総司令部による学制改革で旧制医(歯)科大学が新制大学に転換された。1949年からの学制改革による新制切り替えに際し、医学部・歯学部の入学資格を、新制高校卒業生ではなく大学2年修了者で特定の要件(科目および単位が規定された)を満たすものとされた。多くの単科医科(歯科)大学は旧大学令による旧制大学予科を持っており、旧制では7年間連続教育を行っていた。そこでこの制度をそのまま残し、入学資格を新制高等学校卒業、修業年限を2年とした旧制大学予科を設置して「大学2年修了者」の要件を満たした。つまり新制高校を卒業すると各医科(歯科)大学の予科を受験して入学し、2年後に医(歯)学部入試を受験したのである。しかし、ある意味当然ではあるが、大学予科の入学試験によりすでに学生を選抜しているので、医(歯)学部入学試験は形骸化し、無条件(あるいは内部試験)で進学させる、6年連続教育が多くの単科大学で行われた。一方、旧帝大などの総合大学は、理学部の中に医歯学部を受験するコースである2年制の大学を「理学部乙」等の名称で設け、そこを修了した者が医(歯)学部入試を受験した。この制度では受験に失敗した医(歯)学部浪人が理学部内にあふれ、社会問題化した。そこで文部省は旧制大学予科や理学部乙を、リベラルアーツのみを学ぶ短期大学に改組して医(歯)学部の入学資格を短大卒にしようと計画した。
[編集] 進学課程設置
その後、文部省が方針転換して旧制大学予科や理学部乙の短期大学への切り替えを求めず、医(歯)学部進学課程という名の修業年限2年の大学の設置を認めた。そこで1955年より、入学試験を受験せずに医歯学専門課程に自動的に進学できる進学課程に、ほとんどの大学で切り替わった。この制度改正の結果、2年制進学課程修了者は自動的に4年制専門課程へ進級できることになり、医学部および歯学部は6年連続制となった。なお東京大学では1962年より自動的に医学部に進学できる理科三類を設置したが、修了者の出る1963年までは理学部等の2年次以上修了者(卒業者も含む)を対象とする医学部進学のために入試が行われた。京都大学では1963年まで進学課程と医学部進学入試制度が並存した。各大学が進学課程を設置したのは、通常の理学部過程である理学部甲等からも医学部進学者が発生したため理学部教育に支障をきたし(具体的には優秀な学生が抜けてゆく)、批判が生じたからである。[1]。
[編集] その後の展開
1991年に学校教育法55条第2項が改正され、医学部・歯学部の入学資格を高校卒業とするとともに修業年限を6年とした(6年一貫教育)。進学課程は医学部・歯学部に吸収されていった(東京大学は2年(理科3類)+4年(医学部医学科)で前のまま)。これにより進学課程の担っていたリベラルアーツ教育の時間は大幅に減少した。このことは医歯学専門教育の時間数を増加させるものとして当時は歓迎されたが、その後、人間性に問題のある医師・歯科医師の存在をどうするかが教育現場で次第に意識されはじめ、いまは揺り戻しが始まろうとしているところである。