赤橋登子
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赤橋 登子(あかはし とうこ、徳治元年〔1306年〕-貞治4年/正平20年5月4日〔1365年5月25日〕)は、鎌倉時代から南北朝・室町時代の人物で、室町幕府初代将軍足利尊氏の正室。北条(赤橋)久時の娘で、鎌倉幕府最後の執権である北条(赤橋)守時は兄。子に、室町幕府二代将軍足利義詮、鎌倉公方初代公方足利基氏、足利頼子(崇光天皇皇后)。位階は従二位、贈従一位。正式な名は平 登子(たいら の なりこ)。
[編集] 経歴
北条氏と足利氏との融和策の一環として足利高氏(当時)に嫁ぎ、嫡男千寿王(のちの義詮)を産んだが、北条家への人質として鎌倉に差し出されたり、のちに高氏が鎌倉幕府に反抗したため、結果として兄の守時を含む北条一門が族滅の憂き目にあうなど辛酸をなめた。その後も南北朝の戦乱がますます激化し、さらに夫の尊氏の死後に子の義詮と基氏とが対立するなど不幸な境遇は続いたものの、孫の春王(後の義満)の成長を見守りながら1365年に没した。尊氏や義詮との家族仲は良好であったらしく、没後は義詮のはからいで尊氏の母上杉清子や尊氏の遺骨が分骨されている寺に彼女の遺骨も分骨された。