賢俊
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賢俊(けんしゅん、正安元年(1299年) - 正平12年/延文2年7月16日(1357年8月2日))は、南北朝時代の真言宗の僧。父は権大納言日野俊光。兄弟に日野資名。俗名は日野 賢俊(ひの たかとし)。菩薩寺大僧正。
醍醐寺宝池院流賢助に師事して密教を学ぶ。南北朝時代の内乱では足利尊氏方につき、後醍醐天皇の信任を受け権勢を誇っていた文観を排除し、1336年(建武3年/延元元年)、権大僧正に任じられて醍醐寺座主・根来寺座主となる。同年2月尊氏が九州に走った際にはそれに従い、陣中の群議にあたった。また持明院統(北朝)の光厳上皇の院宣と錦旗を尊氏に伝える役割を果たし、室町時代の足利将軍家と日野家の関係の端緒となる。
尊氏の護持僧として権勢をふるい、醍醐寺に食邑として6万石を寄進されて伽藍を整備し、さらに京都に新三宝院を造営・寄進されてその院主となった。1340年(暦応3年/興国元年)に東寺長者、1342年(康永元年/興国3年)法務大僧正に就任。1350年(観応元年/正平5年)東寺長者の職を辞して尊氏の九州鎮定にしたがっている。
『三宝院賢俊像』は醍醐寺所蔵、また『三宝院賢俊僧正日記』がある。