諏訪忠厚
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諏訪 忠厚(すわ ただあつ、延享3年9月29日(1746年11月12日) - 文化9年6月17日(1812年7月25日))は、信濃国諏訪藩の第6代藩主。家系は神氏の流れを汲む諏訪氏。第5代藩主・諏訪忠林の四男。官位は従五位下安芸守。正室は阿部正福の娘。子は諏訪忠粛(長男)、諏訪頼庸(次男)。
[編集] 生涯
[編集] 暗君の登場
宝暦13年(1763年)、父の隠居を受けて家督を継ぎ、第6代藩主となる。この頃、諏訪藩では財政悪化から藩政改革を迫られていた。先代の忠林の時代にも改革は行なわれたが、反対派の動きなどもあって失敗している。このような中で後を継いだ忠厚は政務に関心を示さない暗愚無能の人物であった。このため、筆頭家老の千野貞亮が実権を掌握する。
千野は藩財政再建のため、明和元年(1764年)に新役所を設置し、翌年には領民に対して重税を強いるなどの方針で領民を大いに苦しめたが、藩財政はいくらか再建された。千野は忠厚から賞賛されることとなったが、このことが騒動の火種となった。
[編集] 二の丸騒動
事件は、千野が藩財政をいくらか再建することで始まった。諏訪氏には当時、家臣に二つの派閥があった。ひとつは鎌倉時代から諏訪氏に仕えてきた累代の重臣・千野氏で、高島城三の丸に屋敷を構えていた。これに対抗するように初代藩主・諏訪頼水の弟・諏訪頼雄を祖とする高遠藩の家老一族がいたが、これは二の丸に屋敷を構えていた。これらは知行は共に1200石で、交代で歴代の家老を輩出してきた家柄である。
ところが千野が改革で功績を挙げたことで、もう一人の家老である諏訪頼保は、千野に藩の実権を完全に掌握されるのではないかと恐れおののいた。そこで頼保は、千野の追い落としを計画する。藩主・忠厚には渡辺助左衛門という寵愛している江戸詰の側用人がいたが、頼保はこれに近づいて、共に千野の追い落としを図った。頼保は忠厚に対して、「千野の改革は領民から税をむしり取るだけのものであり、領民は一揆を起こしかねないほど千野を恨んでいる」と讒言したのだ。確かに千野の改革は税を搾取するのが主であったため、領民が苦しんでいたのは確かであったが、藩主の忠厚はこれに対して大した調べもせずに千野を家老から解任して知行を召し上げ、閉門処分にしてしまったのである。こうして頼保は主席家老となり、150石の恩賞までいただくという栄誉を受けたのだ。しかし、このような頼保に清廉なところも、政治手腕も無かった。頼保はいわゆる時代劇で有名な悪代官であり、賄賂を払う者を多く取り立て、女や酒を周りに集めては遊興や淫らな行為に走るなど、千野以上の悪政を行なったのである。
しかし千野はこのまま黙っていなかった。安永8年(1779年)3月、勢いを盛り返して江戸にいる忠厚のもとに乗り込み、頼保の淫らな行状を訴えた。忠厚はこれを知って激怒し、頼保を家老から罷免し、知行を召し上げて閉門に処したのである。
だが、頼保はすぐに巻き返しに出た。忠厚には正室との間に男児がおらず、側室との間に二人の息子がいた。ひとりはおとめという女性が産んだ軍次郎(のちの諏訪忠粛)、もうひとりはおきそという女性が産んだ鶴蔵である。ところが忠厚はおきそを溺愛したため、家督を鶴蔵に譲ろうと考えていた。そこで頼保は忠厚の寵臣である渡辺と手を結んで、軍次郎を廃嫡して鶴蔵を後継ぎとしようと画策した。こうすれば、鶴蔵が藩主になったとき、頼保は藩主擁立の功績の第一人者となれるからである。
これを知った千野は、いくら何でも主家の家督にまで手を出すのには反対で、家督は長男が継ぐべきと考えていた。そこで二の丸派の動きを阻止しようとしたが、渡辺が忠厚に対してまたも讒言したため、千野は忠厚の命で家老罷免の上、押し込めとなった。こうなると頼保は勢いづき、軍次郎を調伏(呪い)し、さらに忠厚の正室が軍次郎を支持しているのを苦々しく思って、忠厚に対して正室との離別を提言した。忠厚もいつまでたっても子を産まない正室に苛立っていたため、正室は強制的に離別させられた。
一方、押し込めとなっていた千野は、このような家督騒動の事態になったことを憂慮し、自分の死を覚悟して押し込め身分から脱走し、江戸の松平乗寛のもとへこの事態を訴え、助けを求めた。乗寛は忠厚の妹婿で、幕府の奏者番を務めていた人物である。事態を知った乗寛は幕府がこれを知れば改易になりかねないことを憂慮して天明元年(1781年)10月、忠厚を説得して家督を長男の忠粛に譲らせることを実現した。さらにこの功績で、千野は再び家老に復帰した。
そして頼粛を調伏して藩政を牛耳ろうと企んでいた二の丸派は天明3年(1783年)7月、頼保が切腹、渡辺ら4名は斬首という処分が下され、ようやく二の丸騒動は終焉したのであった。全ては単純暗愚の藩主・忠厚から始まったと言っても過言ではない騒動であった。
忠厚は1812年、67歳で死去した。
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