蘇洵
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蘇洵(そ・じゅん、1009年 - 1066年)は北宋時代の中国の文人で、唐宋八大家の一人。蘇軾・蘇轍の父。字は明允、老泉と号す。
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[編集] 生涯
眉州眉山(四川省眉山市)の出身。幼時から書を読んでいたが、すぐに学問はやめて無頼の仲間と交遊する。27歳で思うところあり学問を再開し、ついに六経百家の学に通じ、文章と書道の名人となる。至和・嘉祐年間(1055年~)に蘇軾・蘇轍の二子を連れて都に行き、翰林学士であった欧陽修に著書のうち「権書」「衡論」ほか22篇を献呈し、宰相・韓琦の計らいで舎人院に召されることになったが、病気を理由に辞退し、秘書省校書郎となる。後に太常寺の命を受け、覇州文安県主簿の禄を受け、陳州項城令・姚闢と建隆(960年~963年)以来の礼書を編纂し、太常院革礼100巻をつくる。完成してすぐに没する。特に光禄寺丞を贈られる。
[編集] 文と思想
その文章は真率にして気骨あり、先秦の風があるとも慕われ、一時は学者の模範とされた。経書を論ずるときも自己の常識から出発し、ことさらに聖人と覇者の区別をたてようとしなかった。「書論」では、周の武王が聖人ではなかったことを論じたように、儒家の因習を顧みなかった大胆さは、実用を重んじた欧陽修や王安石も及ばなかったところである。
政治面では、宋が契丹に貢納していた習慣を姑息と判断し、内政を引き締め兵の規律を確立し、国家の安泰をはかるべきであると考えていた。
[編集] 著書
- 『嘉祐集』15巻(『三蘇全集』本では20巻)
- 『諡法』3巻
- 『蘇老泉全集』20巻
[編集] 参考
- 「故覇州文安県主簿蘇君墓誌銘」(『欧陽文忠公全集』75)
- 「文安先生墓表」(『樂全集』39)
- 『宋史』443
- 『宋元学案』99
- 「蘇洵を論ず」(山路愛山『支那思想史』補遺)