薬丸兼福
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薬丸 兼福(やくまる かねとみ、寛永19年(1642年) - 元禄6年(1693年))は江戸時代の薩摩藩士。幼名を新蔵。通称ははじめ大炊兵衛、後に刑部左衛門。諱は兼福。薬丸兼陳の子。
[編集] 経歴
父の薬丸兼陳に示現流を学び、東郷重方の子、東郷重次(善介)と相打ちの腕前と自称した。
兼福は文武に優れ、細工奉行を務めた。さらに、兵具奉行就任の打診があったが、知行高が足りないという理由で断っている。
男子に恵まれなかったので何度か養子を取った。
まず、甥で黒葛原俊宗[1]の次男、周助忠長を養子として、半介武兼と改めさせる。しかし、天和2年に黒葛原家の長男忠朝が死去したために、黒葛原家に戻る。示現流の達人として知られた黒葛原可山である。
次に天和4年(1684年)に薬丸半左衛門[2]の嫡子、次兵衛を養子としたが、兼福より先に死去する。
結局甥で黒葛原俊宗の三男、周次郎に落ち着いた。薬丸兼慶である。
墓所は曹洞宗医王山薬王寺(『鹿児島士人名抄録』参照)。[3]薬師堂
[編集] 備考
- ^ 通称は周右衛門。黒葛原氏は伊集院氏分流。初め、諱は忠澄であったが、宗家伊集院家の令達により、正徳3年(1713年)夏に俊宗に改名する。
- ^ 「万治2年万治鹿府高帳写」にある石高30石の薬丸半左衛門の事か。
- ^ 曹洞宗玉龍山福昌寺の末寺である。旧薩摩藩領内の他の寺同様に明治初期に廃仏毀釈のため、廃寺。
[編集] 参考文献
- 鹿児島県史料集(34) 示現流関係資料、鹿児島県史料刊行会、平成6年
- 『鹿児島士人名抄録』高城書房
- 鹿児島市史Ⅲ
- 「鹿児島県史料集 旧記雑録拾遺 諸志系図一」