薛瑩
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薛瑩(せつえい、223年? - 282年)は、中国三国時代の呉の武将。字は道言。薛綜の次男で薛珝の弟、薛兼の父、薛顒の祖父。
呉に仕えて秘書中郎将、散騎中常侍と昇進する。孫皓の代には皇太子の補佐係、左国史となった。しかし、土木工事で失敗したことから孫皓の怒りを買い、交州に流罪とされた。このときは、華覈の取り成しで許されて中央に戻っている。しかしその後、再び政争に巻き込まれて交州に流されかけたうえ、獄中に投獄された。このときは、陸抗の弁護で許されている。華覈が中央から去った後は、『呉書』(韋昭編)編纂の中心人物になったものと思われる。呉の滅亡直前には光禄勲に就いていた。
280年、孫皓に晋に対して降伏することを勧め、その降伏文書をしたためた。その後、薛瑩は晋に仕えて散騎中常侍となり、『後漢書』(范曄のものとは別)を編纂している。282年に死去した。