芸亭
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芸亭(うんてい)は、日本で最初の公開図書館とされている施設。奈良時代後期に有力貴族であった石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)によって平城京(現在の奈良県奈良市)に設置された。芸亭院(うんていいん)とも。
古代の有力豪族であった物部氏の末裔(仏教反対派として有名な物部守屋の弟の5代目の子孫だとされる)である石上氏に生まれた宅嗣は藤原仲麻呂討伐などで活躍をして大納言にまで昇る一方で当時を代表する知識人・文人であり、熱心な仏教信者でもあった。
晩年、自分の邸宅を阿閦寺(あしゅくじ)として改築した際に敷地の一郭に古今の漢籍を中心とした書籍を収蔵し希望者に閲覧を許可したのが始まりとされている。その中でも一人の青年貴族賀陽豊年の勉強熱心さには宅嗣も感心して、宅嗣自らがその全知識を豊年に伝授したという話が伝わっている(後年、豊年は優れた詩人・学者として名を残している)。このため、一種の教育機関としての側面も有していたとする見解も存在する。
平安時代初期の歴史書である『続日本紀』の中にある天応元年(781年)6月の宅嗣の死亡記事の中において宅嗣の業績とともに芸亭の創設経緯を記した宅嗣の文章が転載されている。
- 「内外の両門は本(もと)一体たり。漸く極まれば異なるに似たれども善く誘ければ殊(ことな)らず。僕、家を捨て寺と為して心を帰すること久し。内典を助けんが為に外書を加え置く。地はこれ伽藍、事すべからく禁戒すべし。庶(こいねがわ)くば、同志を以て入る者は空有に滞ることなく、兼ねて物我を忘れ、異代来たらん者は塵労を超出して覚地に帰せんことを―」
- 〈現代語訳〉
- 「内(仏教)と外(儒教)はその根本は同じである。漸新さと急進さの違いはあるにしても、上手く導いていければ(その道は)異なることはない。私が家を寄付して寺として仏教への信仰を深めてから久しくなる。内典(仏教の経典)をより理解しやすくするため、外書(儒教などの他分野の本)も併せて置くことにする。ここは(仏教の修行のための)寺なので、その修行を妨げることは何事も禁じ戒めるものである。どうか私と同じ志(仏教への信仰)をもってここに来た人達には、(様々な考え方の)空か有か(といった瑣末な事)を論じて(志を)滞らせることなく、自分の欲望を忘れて(学問や修行に励み)、後進の人達には世俗の苦労などを超越して悟りの境地を開いて欲しいと願うものである。」
これによって、宅嗣の仏教に対する深い信仰の念や芸亭の理念が伺えるとともに、続いて芸亭が現存している事を伝える記事が載っており、『続日本紀』が完成した797年当時にはまだ芸亭が存続していた事が分かる。
だが、現実には既に宅嗣の死から3年後に長岡京次いで平安京への遷都が行われ、平城京自体の荒廃が始まっていた。また石上氏も宅嗣の死とともに藤原氏などの他の有力貴族に押されて没落していった。恐らくはこうした時代の流れとともに芸亭も荒廃・消滅の運命を辿ったものと考えられている。なお、829年(天長5年)に空海が綜芸種智院を設置した際に書かれた「綜芸種智院式」の文中に、自分の学校の先駆として吉備真備の「二教院」とともに石上宅嗣の「芸亭院」を挙げたうえで、芸亭の現状を「始めありて終りなく、人去って跡あれたり」と記しており、この時には既に消滅していたことが窺える。
現在の奈良市立一条高等学校の敷地内が芸亭の所在地と推定されており、同校内には碑文が立っている。
[編集] 「芸」という漢字について
芸亭の「芸」を「ウン」と読むのは間違いではない。本来この字、「芸」(ウン)は芸能・園芸などの「芸」(ゲイ)とは全く字形の同じ別字である。芸能・園芸の「芸」(ゲイ)は当用漢字公布まで用いられた旧字体では「藝」(ゲイ)という書体だったが、戦後になって当用漢字(常用漢字の前身)が公布されてからは新字体として「芸」(ゲイ)に簡略化されたため、もとからある「芸」(ウン)と同形衝突(一致)してしまったのである。「藝」(ゲイ)は「うえる」「わざ」の意、「芸」(ウン)は「くさぎる」(雑草を取る)「ヘンルーダ」(書物の虫を防ぐのに使う香草)の意であり、「芸亭」の名はこの「ヘンルーダ」の意味からきていると思われる。他に石上氏、物部氏の始祖である邇藝速日命の字にちなんだという説もある。