美女丸伝説
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美女丸伝説(びじょまるでんせつ)は、兵庫県川西市を中心に流布している民話。美女丸とは、平安時代中期の僧源賢の幼名である。
[編集] 概要
摂津国多田を治めていた源満仲は、息子の一人美女丸(美丈丸と表記することもある)を出家させようと考え彼を近隣の中山寺に預けていた。しかし美女丸は武術を好んで仏道の修行を怠ったため、怒った満仲は郎等の藤原仲光に美女丸を殺すように命令した。仲光は主君の命令とはいえ美女丸を殺すに忍びず、美女丸とよく似たわが子幸寿丸を身代わりにして首をはね、満仲に差し出した。美女丸は改心して修行に励み、源賢という高僧になった。
美女丸の母はわが子が殺されたと思い込んで悲しみのあまり失明した。故郷に戻った源賢は、母と再会して親子の名乗りをした後、母のために阿弥陀仏に念じて祈願した。その満願の日に奇跡が起こり、母の目は元通りに治った。源賢が仏への感謝のために立てたのが満願寺(兵庫県川西市)であるという。
[編集] 補足説明
- 源賢は史実上でも若い頃は相当の暴れ者だったらしく、『小笠原系図』などの古文書にも比叡山に上った当初は「一山第一の暴悪児」であったが長じて仏道の奥義を極めた高僧になったと記されている。
- 幸寿丸の悲劇は世阿弥作の謡曲『仲光』(観世流以外では『満仲』)の題材にもなっていて、美女丸を巡る伝承が既に中世から流布していたことがわかる。また新歌舞伎十八番の一つ『仲光』(『二世源氏誉身換』とも)もこれらの謡曲を下敷きにしたものである。
- 満願寺の阿弥陀仏は、現在でも「目開きの弥陀」と伝承され、金堂の左方土壇に美女丸・幸寿丸・仲光の供養塔が立っている。
- 小童寺(兵庫県川西市)は、源賢が幸寿丸の冥福を祈るために建てたという。本堂の裏には源賢と幸寿丸・仲光の墓と伝えられる3基の石塔が建っているが、実際は室町時代初期に作られたものらしい。