米フツ
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米芾(べい ふつ、皇祐3年(1051年) - 大観元年(1107年)※生卒年に異説あり)は、中国の北宋末の文学者・書家・画家・収蔵家・鑑賞家であり、まさに典型的な文人である。蔡襄・蘇軾・黄庭堅とともに宋の四大家と称される。
初名は黻(ふつ)、字は元章、官職によって南宮、住拠によって海岳と呼ばれ、号は襄陽漫士・海嶽外史・鹿門居士などがあり、室名を宝晋斎といった。子の米友仁(1074年〜1151年)に対して大米と呼ぶ。湖北襄陽の人。
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[編集] 略伝
徽宗の側近に仕えて書画の鑑定にあたる。のちに礼部員外郎に抜擢され、この官職名がかつて南宮舎人といったので米南宮と呼称された。
その書は始め唐の顔真卿・褚遂良を学び、のち東晋の王羲之、魏・晋の諸名家に遡って研究をすすめた。とくに行書・草書に多くの名品をした。 蘇軾とは親交が深い。 奇矯な性格で、しばしば狂人扱いされた。古書・名画を貪欲に蒐集。また奇石怪石の蒐集を趣味とし、名石に出会うと手を合わせて拝んだと伝えられる。
『宋史』文苑伝に伝えられる。
[編集] 著書
- 『宝晋英光集』
- 『宝章待訪録』(1086年)
- 『書史』
- 『画史』
[編集] 参考文献
- 中田勇次郎『米芾』研究篇 二玄社、1982年
- 塘耕次『米芾 宋代マルチタレントの実像』大修館書店、1999年、ISBN 4469231568