稲葉久通
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稲葉 久通(いなば ひさみち、天保14年2月7日(1843年3月7日) - 明治26年(1893年)6月23日)は、豊後臼杵藩の第15代(最後)の藩主。父は第11代藩主・稲葉雍通の外孫に当たる岡野知英(久通は五男)。母(養母とも)は山内容堂(豊信)の娘。正室は稲葉通孚の娘。官位は従五位下、従五位上、右京亮。
天保14年(1843年)2月7日生まれ。幼名は伊織。文久2年(1862年)に先代藩主・稲葉観通が若死にしたため、その養嗣子となって後を継いだ。幕末期の動乱の中では、土佐藩の山内容堂と縁戚にあったことから佐幕派の立場を貫き、隣藩の岡藩から尊皇攘夷運動の誘いをもちかけられたときも、これを拒絶した。慶応3年(1867年)10月、朝廷から上洛を命じられたときもこれになかなか応じようとはせず、翌年の3月20日になってようやく上洛しているほどである。ちなみにこれは、豊後の諸藩の中で最も遅い上洛であった。
ただし、翌年の版籍奉還においては豊後の諸藩に先駆けて行ない、藩知事に任じられた。その後、久通は藩政改革を断行したが、明治4年(1871年)の廃藩置県により藩知事を免官される。明治26年(1893年)6月23日、51歳で東京にて死去した。法号:一有宗隣本徳院。
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