神成文吉
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神成文吉(かんなり ぶんきち、1869年5月6日(明治2年3月25日) - 1902年(明治35年)1月27日)は青森歩兵第5連隊雪中行軍隊の主任中隊長であった人物。出身は秋田県北秋田郡鷹巣村。妻と息子と娘と養女が一人いた。八甲田雪中行軍遭難事件で遭難死する。眉目秀麗な風貌であった。
陸軍教導団卒業。1894年10月に特務曹長に昇進し、日清戦争に従軍。威海衛で戦闘の後、遼東半島守備、台湾への出征を経て青森へ帰還。1901年5月に陸軍歩兵大尉に昇進する。日露戦争に備えた雪中訓練の総指揮官を勤めることとなり、1902年1月23日に雪中行軍は出発する。だが、途中で遭難する。
極限状態の中で、精神に錯乱をきたす者が出始めた。神成大尉も例外ではなく、1月25日には「天はわれわれを見捨てたらしいッ!」[1](生存者小原忠三郎伍長の筆記、文面には異説あり)と叫び、この発言でここまで頑張ってきた多くの兵士の士気が下がった。この発言は後に新田次郎著『八甲田山死の彷徨』で引用され、映画『八甲田山』では「天は我々を見放した」と表現されこの言葉は流行語となった。
1月26日夜に、同行していた後藤房之助伍長に対し自分を置いて行くよう命令したと後藤伍長は生還後証言した。だが、神成大尉のグループと倉石大尉のグループが分かれたのは27日だと生存者倉石大尉は証言する。この矛盾について、川口泰英は著書であらかじめ神成大尉は後藤伍長に自分に万が一の事があった場合、自分に構わず進めと命令していたため、このような証言のずれが起きたのではないかと推測している。
1月27日10時ごろに後藤伍長が発見されると、その口述から付近に神成大尉が居ることが分かった。11時頃後藤伍長からわずか100メートル後方で発見されるが、腕が凍り付いており針が折れる状態であった。それでも口を開けて針を刺したところ一言何かを言ったとも言われる。だが、一向に手当てのかいが無く、神成大尉をそこに置いて救援隊は帰還した。29日に遺体を収容した。
[編集] 出典
- ^ 『吹雪の惨劇(第二部)』 小笠原孤酒