石田城
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石田城(いしだじょう)は長崎県五島市池田町にあった城。長崎県指定史跡。城内に残る五島氏庭園は国指定名勝に指定されている。福江城とも記される。
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[編集] 概要
幕末の1863年に福江藩最後の藩主五島盛徳が完成させた五島氏の居城。1868年の明治維新により幕藩制度は解体されたため、「日本最後の城」「日本一新しい城」とも称されるが、1872年には本丸が解体された。現在は五島市の中心街に位置しているが、築城当時は海に面しており、日本でも珍しい「海城」であった。幕末期の海上防衛や異国船の来訪に備えるため、幕府から建築を認められたこともあり、城内には台場(砲台)が設けられていた。松前城と共に幕末の城郭として貴重なものである。
本丸、二ノ丸、北ノ丸からなり、内掘、外堀がめぐらされているが、天守は建設されなかったが本丸の二重櫓が代用とされた。城の裏門である蹴出(けだし)門は、部品や木材の交換を重ねながらも現存し、当時の様子を伝えているといわれている。また、土塀の一部や石橋も現存している。石垣は野面積み工法を多用しており、丸石といってもよさそうな自然石も積み上げられている。
[編集] 沿革
慶長19年(1614年)に当時の居城・江川城が焼失。代わって寛永14年(1637年)に石田陣屋を藩庁にした。福江氏は築城を幕府に願い続けたが、藩の財政難もありなかなか実現しなかったが、異国船を監視、海上防衛に備えるとの目的で、幕末の嘉永2年(1849年)、五島盛成の代に築城が認められた。盛成は海辺への築城に際し、福江川河口に、今日でいう灯台にあたる常夜灯「常灯鼻」を弘化3年(1846年)に建設、さらに波の影響から城を守るため、陸へと続く導水堤(防波堤)を嘉永元年(1848年)に完成させた。日本初ともいわれる海に面した城の築城には財政難や海沿い特有の問題もあり、竣工までに14年の歳月を要したが、最後の藩主である盛徳の代になった文久3年(1863年)になり、ようやく念願であった居城を完成させた。
現在、本丸跡に長崎県立五島高等学校、北の丸跡に五島観光歴史資料館や五島市立図書館、五島市福江文化会館が建てられ、二の丸跡には五島氏庭園が往時の姿を今に伝えている。
[編集] 五島氏庭園
二の丸の位置に現在も残っており、一般公開されている。見学は有料。盛成により構想が練られたといわれている。安政5年(1858年)から2年の歳月をかけ、盛成の隠居所として作られた。金閣寺を模した林泉式庭園という回遊式の庭園である。京都の僧、善章に造らせた。庭石と築山はすべて鬼岳の溶岩を用いた特徴的なものである。植栽にビロウジュ、ソテツ、オオタニワタリ、キンモクセイなど南方の植物を配している点も特徴である。「心」の文字をかたどった池は、心字が池と呼ばれている。
国指定名勝に選ばれた理由として、「江戸期の日本庭園の地方伝播の具体例」「城郭内の庭園は現存例が少ない」「作庭時期が文献に明記されている」「建物が庭園とともに保存されている」などがあげられている。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 福江島観光スポット(「観光スポット」の項目にリンクあり) - (社)五島市観光協会