玉川宮
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玉川宮(たまがわのみや)は室町時代に存在した宮家の一つ。南朝の系統であり、初代は長慶天皇の皇子の一人(名前未詳)とされる。宮号は長慶天皇が住んでいたとされる紀伊国玉川宮(現和歌山県九度山町)から。ちなみにこの玉川宮は後醍醐天皇皇女で光厳上皇妃だった懽子内親王が離婚後出家し天授5年(1379年)に没するまで暮らした場所と伝承されている。
同じ南朝系列の宮家に小倉宮家があるが、小倉宮家以上に系譜や行動には不明な点が多い。長慶天皇の孫娘に当たる玉川宮の娘・東御方は足利義教の側室の一人だったことから、室町幕府に敵対的だったとされる祖・長慶天皇や小倉宮家とは異なり、幕府には融和的な態度をとっていたと考えられる。
しかし、室町幕府は南朝関係皇族を源氏に臣籍降下させる予定を急旋回し、全員僧侶とする政策に変更する。南朝関係者が鎌倉公方などと連帯し幕府に反抗的な態度を取ることが多かったために、幕府の安定のためには南朝の血縁を絶滅させる方策を考えるのは自明の理であった。
その後、足利義教と対立した大覚寺義昭が永享9年(1437年)7月に大覚寺を出奔したさい「玉川宮」なる人物が共に逃亡したとされる。
更に享徳4年(1455年)2月28日、玉川宮末孫とされる梵勝(相国寺慶雲院主)とその弟梵仲が逃亡し行方不明となる。禁闕の変、長禄の変で次々と南朝の子孫が圧迫されるのを見て、身の危険を感じたものと思われる。
その後史料に「玉川宮」の名前が現れることはなく、以後の子孫は未詳である。