牧野忠成 (越後長岡藩二代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
牧野 忠成(まきのただなり、寛永12年(1635年) - 延宝2年5月27日(1674年6月30日)は江戸時代の大名。長岡藩2代藩主。長岡藩系牧野家宗家3代。牧野光成の長男。母は本多俊次の娘。官位は従五位下、飛騨守。幼名老之助。初名は忠盛。父・光成が祖父・牧野忠成の家督を相続前に死去したので、祖父の後嗣となった。祖父の実名を名乗ったので、長岡藩ではのちに彼を後忠成公とも呼び慣わしている。
目次 |
[編集] 事績
1635年、牧野光成の嫡男として誕生。1637年に父・光成が早世したため、祖父・忠成の後嗣となる。1655年に祖父・忠成が没したため家督を継ぎ、長岡藩主となる。1674年に40歳で死去した。
[編集] 葬地
江戸二本榎木(現東京都港区内)の周光寺。のち三田(同港区)の済海寺に改葬す。現在は長岡市御山の悠久山蒼柴神社境内に移転した。
[編集] 家族
正室は牧野康成の娘、継室は花輪宗親の娘(牧野定成の養女)。子は牧野忠辰(長男)、娘(安藤信友正室)などがいる。
[編集] 二代忠成の藩主継承をめぐる経緯
初代藩主・忠成の本来の嫡子である大和守光成が相続前に24歳で早世したため、3歳であった光成の遺児老之助(忠成)を差し置いて、光成の弟たち(すなわち叔父)が相続権を主張したことによる。→長岡における動静は長岡藩・お家騒動の項を参照。
結局、長岡藩自身で解決出来ずに幕府に訴訟が持ち込まれ明暦元年(1655年)将軍の裁定を仰ぐことになった。時の将軍は、4代家綱であり、その御前にて老之助の名代牧野正直と叔父達の対決が証拠の品の披露とともに行われた。ただ、一説によると「左様そうせぇ」と云うのが口癖であったと言われているので、親裁は形式的なもので、老中等、幕閣の意向により演出されたとの見方もある。
これに関連して、光成の未亡人で老之助の生母である長寿院(本多俊次の娘)は家臣根岸弥次右衛門の伯母玉木を通じて老中・松平信綱(伊豆守)にわが子の相続の正当性を内密に訴えた。根岸弥次右衛門は松平信綱の旧領武蔵国忍領の郷士出身であるうえに、伯母玉木は長寿院の実家の近江膳所藩主・本多俊次の家臣宇津直右衛門の伯母でもあった。そして、長寿院の実父・本多俊次と時の大老酒井忠勝は従兄弟同士の関係でもあった。これらの幕閣人脈への働きかけが効を奏したものか、将軍家綱の鶴の一声で老之助の相続が実現した。
|
|
|