灌嬰
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灌嬰(かんえい、生年不詳 - 紀元前176年)は、秦・前漢時代の中国の武将。劉邦の武将。睢陽の絹商人であった。項梁が章邯に敗れた後、劉邦が碭に戻った頃に劉邦に従った。秦との戦いで功績を上げ、劉邦に従って武関から秦を討って昌文君の号を与えられた。
劉邦が漢王となると郎中となり、次いで中謁者となり、三秦[1]平定、殷王攻撃などに従う。
劉邦が彭城の戦いに敗れた後、滎陽で楚の騎兵を迎撃するための騎兵を統率する者を選ぶ際、劉邦は騎士であった秦人李必・駱甲を将としようとしたが、彼らは劉邦の側近で騎乗戦闘に長けた者を選ぶよう進言、そこで劉邦は灌嬰を選び、李必・駱甲を校尉として彼に従わせた。灌嬰は中大夫となって郎中騎兵を率いて楚の騎兵を撃退した。その後も騎兵を率いて別働隊などとして活躍し、多くの功を立てている。
後、韓信に従い、斉征服と龍且迎撃に活躍した。龍且を斬ったのは彼の配下の兵であるし、彼自ら亜将周蘭を生け捕りにしたという。その後は楚領を攻め、下邳や彭城を下している。
項羽(項籍)が垓下の戦いに敗れ逃走すると、灌嬰が劉邦の命を受けて追撃した。項羽の死体を持ち帰った五人は灌嬰の配下である。またその後も呉郡など江南、淮北を平定する。その後も燕王臧荼討伐に従軍し、楚王韓信を捕らえる際も同行した。
これまでの功績で高祖6年(紀元前201年)に潁陰侯(食邑二千五百戸)に封じられる。
その後、韓王信の反乱鎮圧に従軍、匈奴の騎兵を破るが劉邦と共に平城で匈奴に囲まれる。また陳豨の反乱、英布の反乱鎮圧に従軍して功を立て、二千五百戸を加増される。
劉邦の死後は恵帝・呂雉に仕えた。呂雉の死後、斉王が呂氏打倒の兵を挙げると彼が斉を討つために派遣されている。しかし灌嬰は周勃らと謀り、滎陽に駐屯して斉王には周勃らが呂氏を滅ぼそうとしていることをほのめかして戦わず、斉王も軍を退いた。
周勃らが呂氏を滅ぼし、彼らと共に文帝を擁立すると三千戸を加増され、太尉となった。
文帝前3年(紀元前177年)、丞相周勃が罷免されると後任の丞相となった。同年、匈奴が北辺に侵入すると灌嬰が騎兵8万5千を率いて迎撃に出たが、匈奴は去った後であり、済北王劉興居が反乱起こしたので進軍を止めた。
翌年(紀元前176年)死去。諡は懿侯。
子の灌何(平侯)が後を継いだ。灌何は呉楚七国の乱鎮圧の軍に従軍している(『漢書』灌夫伝)。その子の灌彊の代に罪があって断絶したが、武帝によって灌嬰の孫の灌賢が臨汝侯に封じられた。しかしこの灌賢も贈収賄で有罪となり国を召し上げられた。