滋野貞主
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滋野 貞主(しげの の さだぬし、延暦4年(785年) - 仁寿2年2月8日(852年3月2日))は平安時代前期の官僚。尾張守・滋野家訳の子。子に滋野善蔭、滋野善根、縄子(仁明天皇女御)、奥子(文徳天皇宮人)、直子(源国紀室)、娘(滋野吉備雄室)らがいる。
[編集] 略歴
大同2年(807年)に文章生に及第し、弘仁6年(815年)に大内記となり弘仁14年(823年)には父とともに朝臣に改め、姓を賜った。外従五位下に叙され、図書頭・東宮学士となる。天長8年(831年)には従五位下に進み、儒学者たちと古今の文書を分類して『秘府略』1000巻(現存2巻)を撰集し、また『経国集』20巻を撰上した。仁明天皇の時に内蔵頭・宮内大輔・兵部大輔・弾正大弼をへて従四位上の大蔵卿に讃岐守を兼ね、式部大輔となる。承和9年(842年)から参議・勘解由使長官などを歴任し、「便宜十四事」を陳述。承和11年(844年)には私宅を寺として慈恩寺を建立した。嘉祥年間(848年-851年)の初めに尾張守を兼ね宮内卿に遷る。文徳天皇が即位した直後に、正四位下に相模守を兼ねる。毒瘡に病み、詔により医薬を賜るが、まもなく慈恩寺西書院で没する。その死が伝わると哀惜しない者はなかったと伝えられる。