源親治
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源 親治(みなもとの ちかはる、生没年不詳)は平安時代末期の武将。大和源氏の祖の源頼親から数えて五代目にあたる。父は源親弘、母は高倉院女房の伊予内侍。宇野七郎を名乗りとする。
保元元年(1156年)に勃発した保元の乱において、崇徳上皇・藤原頼長方に加担。兵を率いて京に入ろうとするところを、警護にあたっていた敵方の平基盛に見咎められ、合戦の末に敗れて捕虜となる。本戦の間は獄舎につながれていたが、戦後赦免されて本拠の大和国に帰された。これは、親治が大和国内で興福寺と対立関係にあることに目をつけた後白河天皇による、興福寺牽制のための政治的措置だったと言われている。
後代、南北朝期の武将4代孫の大森彦七、戦国期の武将土方雄久や隈部親永などが、この親治の末裔を称している。