済生館
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済生館(さいせいかん)は、山形県山形市の旧済生館病院本館。明治6年(1873年)に私立病院として設立され、明治11年(1878年)9月に当時の県庁そばに本館が竣工した。国の重要文化財。
建物自体は現在山形市霞城公園内に移築され郷土館として利用されている。
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[編集] 建物沿革
- 明治10年7月 初代山形県令三島通庸の命により県立病院長長谷川元良と筒井明俊一等属が上京。大学医学部病院・横浜英国海軍病院を視察、病院の基本構想を作成する。
- 明治11年2月 十等出仕原口祐之を棟梁とし病院本館の建築を開始。
- 明治21年4月 民営となる。医学校廃止。
- 明治37年4月 山形市営となる。
- 明治44年5月 近隣の飲食店(そば屋)から出火し市北部の大半を焼失した「市北大火」発生。幸いにも風上であったため類焼は免れたが、山形市役所が焼失したため一時期山形市役所臨時庁舎として使用された。
- 昭和20年7月 空襲の目標になる懸念から最上部(四階部分)の建屋を撤去。建材は戦争終結後復元する予定で保管されていたが、終戦時の混乱でほぼ全部散逸した。
- 昭和41年12月 国の重要文化財に指定。
- 昭和42年7月 霞城公園内に移築工事開始。
- 昭和44年12月 移築完了。
- 和46年4月 山形市郷土館として開館。
- 昭和57年3月 近代洋風建築シリーズの記念切手第4集として発行される。
[編集] 建物の特徴
旧済生館病院本館は、3層楼なのに実は4層、ドーナツ型の1階部、2階は直径10メートルほどの柱のないホール、中3、4階へは螺旋階段、そしてステンドグラス。
内部構造は大変ユニークで、2階は16角形のホールで中央に柱は1本も立っていないのにもかかわらず、ホール上部に中3階・4階がのっている。これは当時日本に入ってきたばかりのトラス構造を利用して支えられている。さらに、16角形から8角形へ楼の形を変えるのに際して使われているのは多宝塔上層部をくみ上げる工法で、日本古来の建築にも熟達した人物の指揮があったことがうかがえる。
明治初期の下見板張擬洋風建築の最高傑作と評価され昭和41年重要文化財に指定された。