清野謙次
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清野謙次(きよの けんじ、1885年 - 1955年)は、日本の医学者、人類学者、考古学者、考古学・民俗学資料の収集家。
[編集] 来歴・人物
1885年、岡山県立医学校長兼病院長の清野勇の長男として生まれる。
京都帝国大学医科大学を卒業後、ドイツに留学し生体染色を研究し、1921年京都大学に帰り医学部教授となる。生体染色の分野での世界的第一人者となる。その業績により、1922年に日本学士院恩賜賞を受賞した。また、幼少の頃から考古学を趣味にしていた彼は仕事のかたわら古人骨・古文書・民俗学資料などの収集に情熱を傾ける。
1926年、当時日本旧石器時代人の論争が小金井良精のアイヌ説にまとまりつつあった。そこへ清野は「津雲石器時代人はアイヌ人なりや」という論説を発表する。これは、1919年から翌年にかけて岡山県津雲遺跡で発掘・収集された縄文人骨46体をはじめ、彼が収集した日本各地の古人骨を使って、人骨の各部位の長さの比率などを測定し、その結果「現在の日本人とアイヌ人は、津雲人と比較するとずっと似ている」という結果を発表する。その理由として「現代アイヌ人も現代日本人も元々日本原人なるものがあり、それが進化して、南北における隣接人種との混血によって成ったものだ」と主張し、小金井良精のアイヌ説を退けた。彼の説は多くの学者に歓迎され(これは、時局的に微妙な原日本人論争を避けることができるためとも言われる。実際、清野の論文の後は、学者らは原日本人のことを論文に書かなくなった)、以降DNA検査が主流になるまで原日本人論争の主流となった。
1938年、学位論文で次のような表現を彼は使っている。「この意味において日本島は人類生息以来日本人の故郷である…断じてアイヌの母地を占領して居住したものではない」「我らの先祖は気宇広大でよく他人種をいれて自己の種族に同化したのであった」。しかし、清野はこの直後から論調を転換し、人種的混合を完全否定する。人類が発祥してすぐに「日本人」は「日本」の地を占拠し以後連綿と現在まで続いていると主張するようになる。清野は『日本民族生成論』において「皇国のありがたさ」「日本民族の独自性ある生い立ち」を「数理」から立証した自説を読んで「日本国民としての自覚を増していただきたいため」にこの本を書いたとのべている。
彼の論文は学者らに歓迎されたが、「日本原人」とどのような人種が混じり、現在の日本人やアイヌ人になったのか明確にはされていなかった。また、坪井正五郎が原日本人論争においてアイヌ人の伝承であるコロボックルを利用していることを清野は強烈に批判したが、自らも古事記や日本書紀の伝承的内容である長脛彦に言及し、発掘された長身人骨と関連づけ自説の補強としている点を批判する人もいる。
1938年、生体染色の研究の総括をドイツ語論文として発行し評価を得た直後に「誠に奇妙なる精神状態」のうえに収集癖がこうじて、京都の古寺から教典や古文書を盗む窃盗事件を起こしてしまう。そのため、彼は在籍する京都大学を辞職させられてしまう。彼は逮捕され、有罪判決を受ける。
1941年、上京。太平洋協会の嘱託となり、大東亜共栄圏建設に人類学者として参加する。また、満州731部隊の病理解剖の最高顧問を務める。
清野は太平洋協会では大東亜共栄圏建設における国民のイデオロギー的統一を積極的に企てた。また731部隊に対しては人材確保・指導などに「異常なまでにてこ入れした」(石井四郎発言)戦後彼はアメリカとの密約に基づき戦犯追及を逃れ、依然として医学と考古学の分野で影響力を残していく。
石井四郎は京都大学における清野の愛弟子である。
現在、彼の収集した資料は「清野謙次コレクション」としてしばしば展覧会が開かれている。日本各地の遺蹟から出土した人骨は京都大學自然人類学研究室に、考古民俗資料は大阪府立近つ飛鳥博物館に、藏書は東京大学や天理大学などに納められている。