清水澄
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清水 澄(しみず とおる、1868年(明治元年)9月27日 - 1947年(昭和22年)9月25日)は、日本の憲法学者。学位は、法学博士。枢密院議長。
[編集] 人物
東京帝国大学法科を卒業。学習院教授となる。1905年(明治38年)、法学博士号を取得する。
宮内省及び東宮御学問所御用掛となり、大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講した。行政裁判所長官、枢密院顧問官を経て、敗戦後、1946年(昭和21年)6月13日最後の枢密院議長に任ぜられる。
1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法が施行されると、日本の国体の危機を憂えて、同年9月25日、熱海錦ヶ浦海岸から投身自殺を遂げた。
遺言に当たる「自決ノ辞」には、
- 「新日本憲法ノ發布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル團体及個人アリタリ其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戦争責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ我國ノ將來ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪ヘズ併シ小生微力ニシテ之ガ對策ナシ依テ自決シ幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス之小生ノ自決スル所以ナリ而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ択ビタルハ楚ノ名臣屈原ニ倣ヒタルナリ
- 元枢密院議長 八十翁 清水澄 法學博士 昭和二十二年五月 新憲法実施ノ日認ム
- 追言 小生昭和九年以後進講(宮内省御用係トシテ十数年一週ニ二回又ハ一回)シタルコト従テ龍顔ヲ拝シタルコト夥敷ヲ以テ陛下ノ平和愛好ノ御性質ヲ熟知セリ従テ戦争ヲ御賛成ナカリシコト明ナリ」
と記し、大日本帝国憲法に殉じ、自殺をすることと、その自殺が中国の戦国時代の楚国の屈原が汨羅(べきら)の淵に投身自決した故事に倣ったことが記されている。そして、公人としての最後の責任を全うするために、自らの想いとは別に最後の枢密院議長として新憲法の審議に尽力したのである。
金沢市の護国神社には、「清水澄博士顕彰碑」がある。
[編集] 著書
- 『国法学』(清水書店、1904年-1910年)
- 『行政法各論』(早稲田大学出版部、1910年)
- 『帝国憲法大意』(清水書店、1912年)
- 『帝国憲法の話』(実業之日本社、1914年)
- 『帝国公法大意』(清水書店、1925年)
- 『国体論』(教化団体聯合会、1927年)
- 『日本行政法大意』(清水書店)
- 『逐条帝国憲法講義』(松華堂書店、1932年)
- 『日本行政法』(松華堂書店、1935年)