河野通信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
河野通信(こうの みちのぶ ? - 貞応元年(1223年))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武士。通清の子。伊予水軍の将。
源平合戦では、高縄半島でゲリラ戦を展開し、壇ノ浦合戦にも参加している。 戦後はその功績から、守護職は与えられなかったものの、伊予国内の一部の御家人を統括する強い権限を認められた。
1189年には奥州藤原氏の討伐にも加わる。
1221年の承久の乱では、後鳥羽上皇方につくが、1222年に鎌倉幕府方に居城を攻められ降伏。陸奥国江刺に流罪となり、江刺郡稲瀬(現在の岩手県北上市稲瀬町)にある国見山極楽寺で1223年に死去した。 墓所は現在も稲瀬町水越地区に聖塚として残る。 孫にあたる一遍が全国を遊行した様子を描いた絵巻物である「一遍上人絵伝」に、1280年に祖父の墓で供養を行う様子が描かれていることが、この墓所を発見する手がかりになった。
河野本家は幕府方に付いた子の通久によって辛うじて続くこととなったが、以後伊予国内での影響力が低下することとなった。