江源武鑑
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江源武鑑(こうげんぶかん)は、近世に書かれた近江の戦国大名・六角(佐々木)氏に関する日記形式の歴史書である。1621年(元和7年)初版刊行。全18巻。18世紀に至り世に知られたが、内容が事実として後世公に認められることはなかった。
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[編集] 概要
日記形式であるものの年代に多くの間違いのあること、他の史料から裏づけのとれない独自のエピソードが多いこと、通説と異なる内容を綴っていることなどから、一般的には偽書とされている。例えば、六角氏綱の後継者は世に知られる六角定頼ではなく六角義実でありその系譜が六角義秀、六角義郷と継承したという一連の記述、豊臣秀吉の前名は「木下元吉」であり、信長家臣時代に六角義秀から「秀」の字を賜り、「木下秀吉」と改名したなどといったある。 もっとも、義郷が秀次事件に連座失脚して以来氏綱系の六角宗家が武家として仕官していないことから自らを本家と唱える庶流の説が権威を持った、江戸期には秀吉について触れることはタブーであったことから、秀吉関連の事跡を隠蔽するために偽書とされた可能性もあり、単純に否定するのは難しい。また初版刊行当時は同書に記された六角氏の家臣、関係者も多くが生存しており、仮に源内が氏郷になりすます目的を持ってこの書を記したとすれば、たちまち露見し厳罰に処せられている[1]筈である。そうした点からも、偽書と断定するのは早計であると言える。
[編集] 著者について
江源武鑑は偽系図の作成者として有名な沢田源内が、自らを六角氏綱の子孫六角氏郷であると称し六角家の嫡流に位置付けるために執筆した偽書と考えられている。『重編応仁記』(1706年)によれば、源内の出自は、「父は仁左衛門と云ふ。江州堅田郷に小分なる土民也」とある。しかし源内の生年は初版が刊行された1621年(元和7年)前後であるとされ、同書は内容もさることながら、著者についても不明な点が多い。
[編集] 偽書とされた経緯
偽書とされた理由については江戸中期、氏郷、源内が共に没した後の1708年(宝永5年)、六角義賢(箕作家、六角家陣代)の子孫である加賀藩士・佐々木定賢(佐々木兵庫入道家)がすでに死去していた義賢流の旗本・佐々木高重を「本家を詐称した」として幕府に訴える事件が大きく関係しているという。 この訴訟に際して定賢が自らの家を六角氏正嫡に位置づけるために唱えた主張(『佐々木氏偽宗弁』系図綜覧所収)が建部賢明『大系図評判遮中抄』、近江の代表的な地誌『近江輿地誌略』(1734年)、『近江蒲生郡志』などに採用され、これらが世に広まった結果六角氏綱の子孫を嫡流とする本書は偽書にされたと説明するものもある。
[編集] 他の書籍における評価
『近江輿地誌略』には、『江源武鑑』の説に触れて「武鑑の説信用するに足らず」などとあり、かつまた「偽書也」と断じられている。しかし『寛政重修諸家譜』(1789年-1801年)収録の六角旧臣山岡氏系図などには義実・義秀の事跡が書かれており、佐々木氏一族である丸亀藩主京極氏、筑前黒田氏など大名家の記録にも事跡が記されて、存在が肯定されている。
明治年間には谷春散人『沢田源内偽撰書由来』(『歴史地理』第八巻収録、1906年)のように否定する著作がなされたが、近年では「成立したとされる年代に登場人物がまだ生存していたこと」などを理由として再評価する学術博士佐々木哲の『佐々木六角氏の系譜』(2006年)『系譜伝承論』などの研究書籍も刊行されている。[2] なお、『江源武鑑』において実在が語られ、同書を偽書とする大きな根拠の一つとなっている六角氏正統の義実、義秀、義郷に関しては1979年(昭和54年)~1982年(昭和54年)に田中政三が『近江源氏』1~3巻においてその実在を唱えている。
[編集] 三河後風土記撰者考
改正三河後風土記の序文に、原本となった三河後風土記を、家忠日記や三河物語で校正したとあるが、一部は原本のままになっている。三河後風土記撰者考というものが掲載され、その中で、沢田源内氏郷が撰者であると断定している。彼は、江 源武鑑・武家系図という書を偽り作り、世に刊行して世俗を欺きたり、と言及している。徳川家康の家臣の平岩主計親吉の著作と偽っているため、家系図に採用するものがあるという。
沢田源内氏郷は、その身を、佐々木の嫡流と偽っているという。
※三河後風土記の異本が数本流布しており、それを原本として、徳川幕府の儒学者の成島司直が、校正して著作したものが、改正三河後風土記である。その序文で、三河後風土記撰者考を、成島司直自身が執筆している。
[編集] 関連書籍
- 『系譜伝承論』(思文閣出版、2007年)
- 『佐々木六角氏の系譜』(思文閣出版、2006年)
- 『近江源氏』1~3巻(弘文堂、1979年-1982年)
[編集] 外部リンク
[編集] 脚注
- ^ 京都所司代は洛中で官位を詐称する者について追及を行っており、六角氏郷も稲葉正則から喚問を受けている。
- ^ ただし、佐々木も人名に関する錯誤・混同について指摘している箇所があり、記述を全肯定しているわけではないことに注意すべきである。