水野騒動
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水野騒動(みずのそうどう)は、江戸時代中期に起こった三河岡崎藩でのお家騒動である。
岡崎藩の水野氏は譜代大名の名門であったため、第2代藩主・水野忠春は奏者番・寺社奉行を兼任し、第4代藩主・水野忠之は奏者番・若年寄・京都所司代・老中を歴任するなど、歴代藩主の多くが幕閣となって幕政に参与したため、江戸在府による支出が多かった。その一方で藩政が疎かになり、元禄14年(1701年)や宝永2年(1705年)の矢作川氾濫による洪水、元禄15年(1702年)の暴風雨など、連年のように災害に悩まされて藩財政は窮乏した。
このため元文2年(1737年)に第6代藩主となった水野忠辰は、藩政改革を断行した。倹約を徹底し、改革に反対したり、旧来の保守系である家老らを次々と強制的に隠居させて腹心の小姓らを取り立てるなどして藩財政の再建と人材の一新を図ったのである。ただしこのように厳しかった反面で、忠辰は家臣の半知借上を一部緩和したり、家臣の中でも特に困窮者は援助金を与えるなど、譲歩した政策も採用している。ただし、このような譲歩があったということは忠辰の改革が周囲から支持されていなかった現われでもあった。寛延元年(1748年)には忠辰の改革に反発した老臣が出仕を拒否するようになった。さらに忠辰も改革の失敗から次第に藩政への関心を失って遊蕩に溺れるようになり、宝暦元年(1751年)には遊蕩を理由にして、忠辰は老臣によって幽閉されてしまった。
宝暦2年(1752年)3月22日には、家督を養子の水野忠任に譲って隠居することを余儀なくされた。そして忠辰は8月18日に失意の内に幽閉のままで死去した。