民工
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民工(みんこう、ピンイン: míngōng、農民工の略称)は中華人民共和国において、農民でありながら雇用主に雇われて働く肉体労働者の呼称。特に貧困地帯である内陸部の出身者が沿岸部を中心とする都市へと流入し、単純労働者として軽工業に従事した場合を想定する。中国共産党の特有な戸籍制度のために、彼らは2005年までにほとんど労働組合のようなものを持たず、権益の保障がほぼなく、都市経済の発展によってもたらされる社会福祉の恩恵を受けることもできなく、都市における被雇用者の中で最低の労働条件、最低の労働環境、最低の収入を得るグループを成している。それと同時に、中国の経済発展を支える産業労働者における最大のグループであり、2005年の時点で1.5億人の民工がいるものと推測される。「工」は中国語「工人」ピンイン: gōngrén、労働者)の略。
[編集] 概要
1978年に中華人民共和国は鄧小平が主導した「改革開放政策」の一環として、市場経済の導入を決定。1979年、深圳、珠海、汕頭(スワトウ)、厦門(アモイ)に経済特区をもうけた。また海外との貿易に有利な沿岸部の開発を推し進めた。その結果、これらの地域の経済力は飛躍的に伸び工業化が進行した。外国資本も呼び込んでの急速な開発であったため、労働集約産業においては人手不足が顕在化するとともに、沿岸部の都市とその他内陸部の農村との経済格差が生じることになった。
中華人民共和国では元来戸籍に「農業戸籍」と「非農業戸籍」の二種を設け、人口移動を厳しく制限していたため、配給制度に依拠し、就職先としても国営企業しか存在していなかった改革開放前には大きな人口移動は起こらなかったが、経済の自由化によって農民にとっての戸籍の重要性が低下すると、内陸部の人々が沿岸部に職を求めて移動するようになった。彼等は都市部の単純労働者として中国の経済発展に寄与することになる。このような移住者を「民工」と呼ぶようになり、彼等の移動を「民工潮」と呼ぶようになった。80年代後半以降、移動の人口が都市部での雇用需要を上回り、都市部に出たものの仕事に就けない者も現れた。これらを「盲流」(もうりゅう、ピンイン: mángliú)という。
[編集] 現状
中国政府の統計によれば、2005年の時点で1.5億の民工がいるものと推測され、主に建築業、採鉱業、第三次産業および労働力密集型産業に従事している。中国沿海地方の生産型企業は民工の労働力に依存している。
低い賃金、劣悪な労働環境の「民工」であったが、近年では民工による労働組合もでき雇用条件も改善されつつあり全体的に状況が良くなってきているが、未だに多くの民工が差別、経済的な問題を抱え、非常に厳しい生活を強いられている。それを改善するべく中国政府は戸籍制度の改正を視野に入れ、根本的な問題解決に乗り出し始めている。