樋口兼光
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樋口 兼光(ひぐち かねみつ、生年不詳 - 元暦元年2月2日(1184年3月15日)) は平安時代末期の武将。中原兼遠の次男。今井兼平・巴御前の兄。通称・次郎。正式な名のりは中原兼光(なかはら の かねみつ)。木曾義仲の乳母子にして股肱の臣。義仲四天王の一人である。
生涯
義仲の挙兵時から付き従い、倶利伽羅峠の戦いなどで重要な役割を果たす。義仲軍上洛後も法住寺合戦で後白河法皇を拘束するなどその片腕として活躍した。
元暦元年、義仲の敗死後、児玉党の薦めで降伏するも源頼朝の命により斬首。その際、その武勇を惜しむ源範頼や義経をはじめ、多くの人から助命嘆願があったとされる。
『平家物語』における最期
以下に『平家物語』巻第九「樋口被斬」における樋口兼光の最期の様子を記す。
樋口は源行家を紀伊国名草に向かっていたが、都に戦ありと聞いて取って返したところ、大渡の橋で今井兼平の下人に会い、木曾義仲も兼平も既にこの世にないことを知った。樋口は涙を流し、「これを聞きたまえ方々、主君に志を思い参らす人々は、これより早くいづこへも落ち行き、いかような仏道修行をもして、主君の菩提を弔いたまえ。兼光は都へ上り討ち死にし、冥途でも主君に面謁し、今井をももう一度みたいと思うためである」と述べて都へ上った。鳥羽離宮の南の門を過ぎるときに、その勢はわずか二十余騎になっていた。その後、何とか命ばかりは助けようと考える児玉党の説得に応じ、児玉党に降った。源範頼と義経は院に伺いをたてたところ、院中の公卿、局の女房、女童までも「木曾が法性寺を焼き滅ぼし、多くの高僧が亡くなったのは今井と樋口によるものであり、これを助けることは口惜しい」と述べたため死罪が決まった。義仲と他五人の首が大路を渡される際、供をつとめることを頻りに申し出、藍摺の直垂と立烏帽子の姿で従い、その次の日に斬られた。