楊震
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楊 震(よう しん、54年 - 124年)は、後漢前期の太尉。字は伯起。楊牧・楊里・楊秉・楊譲・楊奉らの父。
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[編集] 概要
[編集] 出生
弘農郡華陰県(陝西省渭南市)の出身で、先祖は前漢初期の赤泉侯の楊喜とその玄孫の安平侯の楊敞(司馬遷の女婿)で、父は銜環の故事で有名な楊寶である。楊震は「四世太尉、徳業相継」の第一代に当たる人物。
[編集] 生涯
楊震は、後漢初年に刺史や太守を歴任し、清廉な政治家として名を成した人物である。『後漢書』の「楊震伝」には、賄賂を拒絶した際の有名な「天知る、地知る、汝知る、我知る」が掲載されている。彼は、天子の安帝に直言したことで、安帝の逆鱗に触れ、さらに宦官の樊豊らによる讒言もあったため、太尉を懲戒免職され、洛陽城内の西面にある夕陽亭で毒を仰いで「わが事は尽きた!」と叫んで無念の自決を遂げた。
名門の政治家に生まれた楊震は、『後漢書』では「自震至彪、四世太尉」の一文で紹介されている。これは楊震、楊秉(楊震の三男で嫡子)、臨晋侯の楊賜、楊彪と子孫四代に亘って宰相に任じられたことを示し、一般には「四世三公」とも称された。
[編集] 関連項目
- 三国志 (宮城谷昌光):宮城谷昌光の小説。