桑原潤
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桑原 潤(くわはら じゅん、1930年3月1日 - 2003年2月26日)は、ヤクルトスワローズのオーナーを務めた日本の実業家。
[編集] 来歴・人物
福岡県大牟田市出生。三池高校・熊本大学工学部卒業。熊本県出身。1988年4月からヤクルト本社社長に就任(1996年6月まで)。この頃から病気療養中だった球団の松園尚巳オーナーに代わり、球団業務を取り仕切るようになり、1989年10月、長年Bクラスに低迷するチームの体質改善のため野村克也を監督に招聘し、自身は球団オーナー代行に就任。1991年3月からは正式に球団オーナーに就任し、野村監督をバックアップ。
セ・リーグ優勝4回、日本一3回のヤクルトの黄金時代の礎を築いた。しかし、1998年3月、ヤクルト本社がデリバティブ(金融派生商品)取引など財テクの失敗で多額の損失を出したため本社会長を引責辞任。同年6月に球団オーナーの座も退いた。その後はヤクルト・バイオサイエンス研究財団の理事長を務めていた。
2003年2月26日、肝不全のため東京都渋谷区の自宅で死去。享年74(満72歳没)。
[編集] エピソード
- 1995年3月下旬の激励会でヤクルトスワローズのオーナーだった桑原は、野村克也監督(当時)、コーチ陣、全選手、ヤクルト担当記者を前にして、「おそらく野村監督も今季が最後だろうと思いますので…。」と言ってしまった。続いて壇上に立った野村は、「ただいまのオーナーの談話によると、私は今季が最後だそうで…、まあボチボチやらしてもらいますよ」と言い放った。そのシーズン、ヤクルトは4月に14勝5敗で首位に立つと、そのまま優勝した。優勝した当夜、桑原は野村に「なんとも申し訳ありませんでした」と謝罪した。
- 長嶋一茂がヤクルトに在籍した頃、1992年に野球留学させたが、一茂に対して事実上「戦力外」の烙印をおした。
[編集] 関連項目
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