桂文治 (9代目)
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9代目桂 文治(かつら ぶんじ、1892年9月7日 - 1978年3月8日)は、落語家。本名は高安留吉。生前は落語協会所属。定紋は結三柏。出囃子は『野崎』。通称「留さん文治」(※襲名までは単に「留さん」)。
周囲の薦めにより前名翁家さん馬から9代目桂文治襲名時、本人は「さん馬」「産婆」のクスグリが使えなくなることと、襲名に多額の資金が必要な事から嫌がったという。彼は落語界屈指の吝嗇家として有名だった。
稲荷町(現・台東区東上野)の長屋に住み、3代目柳家小さん門下だった8代目林家正蔵(後の林家彦六)とは兄弟分で部屋も隣り同士と昵懇の間柄であった。なお彦六は一時、文治の最初の師匠4代目橘家圓蔵一門に在籍していたことがある。
得意ネタは、本人を地でゆくような「片棒」、初代柳家蝠丸(10代目桂文治の実父)作の「大蔵次官」、「口入屋」、「小言幸兵衛」、「好きと怖い」、「俳優の命日」、「岸さん」、「不動坊」、「歌劇の穴」、「宇治大納言」などである。
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[編集] 芸歴
大正4年(1915年)4代目橘家圓蔵に入門し、橘家咲蔵となる。大正8年(1918年)7代目翁家さん馬(後の8代目桂文治)門下に移って翁家さん好と改名する。後に立花家橘之助の一座に加わり巡業に出るが、御難にあい東京に帰れなくなり、大正10年(1921年)頃大阪に流れつき2代目桂三木助門人となり桂三木弥となる。
大阪時代は、その後の持ちネタとなる多くの噺を学び、また初代桂春團治に接し大きな影響をうけるなど彼自身にとって一つの転機となった。大正10年(1921年)帰京、文治門下に復帰し翌大正11年(1922年)11月桂文七に改名するが、師匠文治との関係が悪化し止む無く小さん一門に移る。
大正14年(1925年)10月真打昇進し、柳家さん輔に改名。昭和13年(1938年)4月前師匠文治の前名9代目翁家さん馬襲名。戦後は文化放送専属でラジオの寄席中継に出る様になり、その芸が認められ昭和35年(1960年)4月9代目桂文治襲名。
昭和47年(1972年)3月友人彦六、彦六の天敵6代目三遊亭圓生と共に落語協会顧問就任、落語界最長老として活躍するも、昭和51年(1976年)1月24日脳溢血に倒れ、1978年3月8日死去。享年85。
[編集] 奇想天外なクスグリ
「留さん文治」は、一見前師匠8代目文治を引き継いだ非常に怖そうな老大家のようだが、その芸風はひょうひょうとした軽い語り口の中に不思議な英語、微妙にアナクロな現代語を織り込んだものであった。その為歴代の文治の流れからすると異色である感は否めないものの、寄席には絶対に欠かせない芸人であった。以下は「留さん文治」の名文句集である。
- 「心中するのにサーベルもって行くやつがあるかい。バグダッドの盗賊じゃねぇんだぞ」(「小言幸兵衛」)
- 「エデンの東のほうから来たんじゃねぇのかい」(「小言幸兵衛」)
- 「若い頃だけですよ、女性が男性に憧憬されたり、ベストを尽くされるのは。ましてや頭の毛がホワイトとなってごらんなさい。そして筋肉に緩みが生じてくるね。アクセントロジックのZ(ゼット)が迷宮に入ってごらんなさい、だぁれも構う者はないから」(「大蔵次官」)
- 「顔面にホワイトのペンキを塗り」(「大蔵次官」→10代目文治も使っていたクスグリ)
- 「(ケネディ大統領が暗殺された話で)殺された場所がよくねぇ、テキサス州ってんでしょう。敵を刺すってんですからね。ダラスって町でしょ。だらすがない。殺したやつがオズワルドってので、自分の了見じゃねぇ、人におすわるとそういうことをする」
- 「『悶え』っていう映画を観てると体が悶えてくる。あの映画に出てる岸田今日子って女優がね。すけべったらしい目つきでね。ああいう映画、あたしゃ大好きなんすよ」(「現代の穴」)
[編集] ドケチの逸話
落語界屈指の吝嗇家であり、7代目立川談志、彦六の弟子林家木久扇をして賞賛せしめるほどの「ケチの文治」として有名で、数々の「ドケチ」の逸話を残す。
- 寄席の席亭に「毎週、これこれの日は早く高座に上がらせて下さい」と要請。刺身好きな文治、アメ横の魚屋の特売日に、早く高座を上がって帰りたかったのである。
- なお、買ってきた魚は、その時代としては珍しい電気冷蔵庫に入れていたが自分のではなく、隣に住む友人の正蔵(彦六)宅の冷蔵庫である。正蔵にとってはいい迷惑である。
- 呼ばれたお座敷で出されたごちそうを腹一杯喰いまくってから寄席に回ってきたが、食い過ぎで腹痛を起こして七転八倒しだしたので、噺家仲間が「今日は休んで帰ったらどうですか? タクシー呼びますよ」と言うと、文治いきなりしゃんとなり「いいえ地下鉄で帰ります」
- もっともこの逸話には続きがある。仕方ないので若い前座に荷物を持たせ、地下鉄の駅まで送ってやることになった。駅で別れ際に「取っておきなさい」と文治の渡した小さな包みを、前座が後で開いてみると、中身はタクシー代よりも多額のチップだった。「ドケチ」と言われてはいたが、単なる吝嗇家ではなかった。
- 普段から大切な義理事への出費は惜しまず、むしろ他人よりも多く包むことを厭わなかったという。「美学のある吝嗇家」であった。