松平重富
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松平 重富(まつだいら しげとみ)は、越前福井藩の第12代藩主[1]。
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 寛延元年11月6日(1748年12月25日) | |||
死没 | 文化6年6月18日(1809年7月30日) | |||
別名 | 仙千代(幼名) | |||
戒名 | 隆徳院 | |||
墓所 | 東京都港区虎ノ門の天徳寺 | |||
官位 | 従四位下、左近衛権中将 | |||
藩 | 越前福井藩主 | |||
氏族 | 一橋家→越前松平家 | |||
父母 | 父:徳川宗尹 母:細田助右衛門の娘・遊歌 養父:松平重昌 |
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兄弟 | 松平重昌、松平重富、徳川治済、 黒田治之 |
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妻 | 正室:徳川宗将の娘・致姫 側室:岡山氏、福山氏 |
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子 | 1男2女:松平治好(長男) |
寛延元年(1748年)11月6日、徳川宗尹(一橋宗尹)の三男として江戸一橋屋敷で生まれる。第11代藩主で異母兄の重昌が宝暦8年(1758年)に死去したため、その養子となって後を継いだ。宝暦10年(1760年)に元服し、徳川家重から1字を賜って重富と名乗る。
藩政においては藩士の知行削減などを中心とした財政再建を目指したが、連年による大雪・大火・風水害・疫病などによる被害が大きく、逆に財政は悪化する。しかも重富自身が江戸の一橋家の生活に慣れていたために豪華絢爛な日常生活を送り、さらには米商人に対して御用金を課すなどの悪政を行なった。ところがこの御用金政策が逆に米価高騰を招き、さらに凶作も重なって福井には貧民があふれ、明和5年(1768年)には打ちこわしまで起こった。そして、福井藩ではこの領民の不満が爆発した打ちこわしに対応できず、やむなく一揆側の要求を認めている。
徳川将軍家と縁戚だったため、幕府から援助金をもらって藩政の再建を目指すが、天明の大飢饉をはじめとする災害などもあって財政はさらに悪化した。寛政11年(1799年)、糸会所を設置するが、間もなく9月18日、長男の治好に家督を譲って隠居する。
文化6年(1809年)6月18日に死去。享年62。
[編集] 脚注
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