ノート:東方問題
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[編集] 「定義と特徴」の編集の説明
秀逸な記事の選考でもコメントしましたが、現在の記事は、情報が多くて充実しており素晴らしいと思いますが、一方では整理が不十分で、特に歴史に詳しく無い人(私もその一人です)には読みづらく感じます。 そこで、まずは「定義と特徴」について整理してみました。
- この節は、名前のとおり「定義と特徴」を記述するように整理しました。
- なるべく原文の内容から足し引きせず、順序や言葉遣いを直して整理することを心がけました。
- ただし、一部の内容(特に挿絵のキャプション)は省略しています。省略したのは「定義と特徴」の節に書くよりも、後の節に記述した方が良いと思える部分です。
Coleus 2006年9月25日 (月) 02:47 (UTC)
- 大変わかりやすく整理していただき、感謝しております。若干の箇所については修正しておきました。大ブルガリアのキャプションについては復帰させております。というのも、ブルガリアの問題においては外交問題としての解決と民族問題としての(ブルガリア側が望んだ)解決が矛盾しており、さらに当初の大ブルガリアの成立もロシア本位によるところが大きいという面でまさしく「東方問題」典型的であるからです。つまり民族問題としての側面部分を除いたキャプションは適当ではないと思われます。また東方問題の主役はどちらかといえばオーストリアとロシアで、各国は両国が中心となって起こる紛争に介入する形が一般的であるということが重要だと思われます(英語版は特にその面を重視しているようです)。イタリアはとくに国民国家形成が遅れたため、東方問題として捉える場合、その主役の一つとしてはおそらくほとんど影響を与えていないと思われます。また「東方問題」において列強側が必ずしもコントロールしきれずにクリミア戦争などのヨーロッパ諸国同士の大規模な戦争にいたるケースもあり、それについての記述が除かれていましたので復帰させました。--Kanbun 2006年9月25日 (月) 10:38 (UTC)
- Coleusです。いたらぬ点をフォローいただき、ありがとうございました。私自身にはKanbunさんのような歴史知識はありませんので、誤った解釈が無いか、今後も監視いただければ助かります。若干の箇所を修正しました。私は、Kanbunさんの言葉をよりわかりやすく伝えようと努力したいと思っています。例えば、「東方問題の決着はAである」ではなく、「東方問題の決着は見方によって一様ではなく、Aとする考えとBとする考えがる」などのように伝えたいとと考えました。大ブルガリアのキャプションですが、元の記述では「一般的な東方問題は第一次世界大戦も含む」と誤解(?)されると思います。私はKanbunさんの言葉からは、「一般的な東方問題はベルリン会議までとする文献が多い。第一次世界大戦を含めても間違いでは無いが、文献としては比較的少数派」と理解していました。私案として、どちらにも理解できるあいまいな文で書き直しましたが、誤解が無い表現で、より適切な表現があれば改訂をお願いします。Coleus 2006年9月26日 (火) 00:22 (UTC)
- 丁寧な修正ありがとうございます。ブルガリアについては東方問題の解決が民族問題の解決ではなかったことを示したかったのみですので、今の記述は適切であると思います。第一次世界大戦までの列強の勢力均衡は、東方問題的な見方では、イタリアでの勢力均衡→東方での勢力均衡→全世界規模での勢力均衡というように列強の世界分割の広がりとともに解釈されるようです。この東方での勢力均衡の時期に対応するのが「東方問題」だという考え方だと思います。ただ一点、気になる部分だけ修正しました。それは「このような状況に際し、ヨーロッパ列強はオスマン帝国などをめぐる紛争に介入して、一国が「一人勝ち」する構造を排除することで、各国の利害を調整しパワーバランスの維持に努めた」の部分で、ここは紛争へ介入するという構造が語られて以前より明確になりましたが、列強がオスマン帝国との条約内容において「一人勝ち」を排除する(戦争の結果だけを見ればロシアの一人勝ちという構造もあるが、サン・ステファノ条約のようにその講和条約によって一人勝ちするような場合には、列強はその利害を調節しようとする)のを基本姿勢としていたことが抜け落ちてしまったと思います。--Kanbun 2006年9月26日 (火) 10:04 (UTC)
- Coleusです。いたらぬ点をフォローいただき、ありがとうございました。私自身にはKanbunさんのような歴史知識はありませんので、誤った解釈が無いか、今後も監視いただければ助かります。若干の箇所を修正しました。私は、Kanbunさんの言葉をよりわかりやすく伝えようと努力したいと思っています。例えば、「東方問題の決着はAである」ではなく、「東方問題の決着は見方によって一様ではなく、Aとする考えとBとする考えがる」などのように伝えたいとと考えました。大ブルガリアのキャプションですが、元の記述では「一般的な東方問題は第一次世界大戦も含む」と誤解(?)されると思います。私はKanbunさんの言葉からは、「一般的な東方問題はベルリン会議までとする文献が多い。第一次世界大戦を含めても間違いでは無いが、文献としては比較的少数派」と理解していました。私案として、どちらにも理解できるあいまいな文で書き直しましたが、誤解が無い表現で、より適切な表現があれば改訂をお願いします。Coleus 2006年9月26日 (火) 00:22 (UTC)
[編集] 歴史的展開の「問題の背景」までについて
歴史的展開の前半部分を読むと、どこまでが問題の背景で、どこからが問題そのものなのかわからず、戸惑います。記事を整理する参考に、次について教えていただけませんか?
- 狭義に「東方問題」というとき、1736年の露土戦争は含まれるのでしょうか?
- 狭義に「東方問題」というとき、1768年の露土戦争は含まれるのでしょうか?
- 狭義に「東方問題」というとき、1787年の露土戦争は含まれるのでしょうか?
Coleus 2006年9月25日 (月) 04:42 (UTC)
- 「東方問題」(これはこの記事で中心的に扱われている意味での18~19世紀固有の東方問題のことです)というのは一連の外交問題であり、その時々によってどの問題が「東方問題」であったかは異なります。さらに「東方問題」に対する歴史家それぞれの意味づけも多様ですので、その始まりについては後半部にある3つの契機がそれぞれ重要な時点ということができます。上の三つについては見方によって全てが含まれますが、見方によっては全てが含まれない場合もあるでしょう(キュチュク・カイナルジ条約以降からベルリン会議までと見る場合)。東方問題というのはどこからどこまでというのは必ずしも明確ではなく、あくまで東方問題というような統一的な性質(この性質自体も見方によって変わりうることは本文中冒頭部で説明しているつもりです)で捉え得る一連の問題があったということが重要なのです。なお「問題の背景」というのは英語版の「Background」節を継承しているためです。また東方問題のようなことは歴史的事実として、個人のように生没年や事件のように発生年がある程度明らかになるとは思えませんので、見方によってある程度時期は伸縮しうると思います。したがってどこからどこまでよりは問題の性質自体により関心が向くべきであり、それを踏まえれば自ずからその時期については論じうるものといえるでしょう。ここで示した時期については参照した文献が示している時期に基づいています。参照した中では1736年露土戦争を含んでいる(あるいはこの問題と密接な関係にあると考える)ものが多いと思います。英語版はキュチュク・カイナルジ条約以降ヘルツェゴビナの併合までと見ているようで、1736年露土戦争については全く関係性を論じていません。またベルリン会議が東方問題の最終的な列強間の解決であるのは、それが最後の事例であるからで、問題自体がそれによって(列強の間でさえ)全面的に解決されたわけではありませんが、東方問題自体に固有の意味設定をする場合に、ヴェルサイユ体制はすでにそれが失われているために論じられないということです。--Kanbun 2006年9月25日 (月) 08:45 (UTC)
丁寧な説明ありがとうございました。まずは、歴史的展開の初めの2節を整理したいと考えています。現在の文章は、第1節と第2節(問題の背景)の役割分担があいまいに感じます。改善案として、次のような整理が考えられますが、ご意見をお聞かせ下さい。
- 第1節は歴史的展開を総括する「概要」、第2節は歴史的に古い「東方問題の形成」
- 第1節は歴史的に最も古い「問題の背景」、第2節は歴史的に続く「東方問題の形成」
Coleus 2006年9月26日 (火) 00:32 (UTC)
- 私の記述意図は1.のスタイルです。歴史的展開部分の執筆意図は冒頭に通史概観→(「問題の背景」以降の)細部の記述というものを考えていました。もともと英語版で「問題の背景」とされているのは、おそらくあちらでは東方問題の成立条件にロシアのトルコ領内正教保護権の獲得による内政干渉を重視しているためと思います。現在の記事で第一の契機としている1699年カルロヴィッツ条約でオスマン帝国が西洋の条約外交に参加する時点を含むならば、当然ここは初期東方問題の節あるいは東方問題の形成・顕在化の節にされるべきと考えています。--Kanbun 2006年9月26日 (火) 10:04 (UTC)
「概説」を、他の項に比べてかなり大きく編集しました。編集の意図は、「概説」によって「歴史的展開」を総括することです。そのために、簡単にですが、ギリシャ独立戦争やクリミア戦争など後の項の内容に触れました。それと、元の文章は時系列がわかりにくく感じたので、私なりに整理してみました。本来の意図を変更しないよう編集したつもりですが、変更点が多いので、不正確になった部分があるかもしれません。できればご確認をお願いします。--Coleus 2006年10月6日 (金) 01:26 (UTC)
- 概説部はもともと「各国の歴史状況→東方問題の概説」という形で記述しました。修正された文章では時系列にとらわれすぎて、歴史状況→歴史的展開という本来的な意図が損なわれてるように思われましたので、それを差し戻す形にしたうえで時系列に配慮した記述を追加しました。厳密な時系列的把握は歴史的展開全体で記述されている上に定義と特徴でも概略が提示されています。利用者の理解への便宜を考えると、ここではむしろ歴史的展開を把握しやすくするための前提状況により留意して記述すべきと考えておりました。--Kanbun 2006年10月6日 (金) 01:52 (UTC)
- というのも、この概説部は歴史的展開の本筋が時間軸を中心とした時系列的な経過を記述しているのに対し、その導入部として時系列的記述では把握されづらい空間的な歴史状況を記述することを重視しています。ここでは歴史学事典その他の概説書の説明を踏まえて各国の状況をやや強引に一般化して、空間的な性格付けをおこなうことで、この空間状況を手がかりに時間軸での各国の動きの理解に役立ててもらおうという意図があるからです。--Kanbun 2006年10月6日 (金) 02:00 (UTC)
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- ご説明ありがとうございました。Kanbunさんの意図を意識しながら、もう一度編集を試みてみました。この後には歴史の時系列の詳細な説明がありますが、それらを読む前に概説を読みます。このとき、私は予備知識が無いので、概説の元の文を読んだときには時系列の理解にかなり混乱し、特に1871年のドイツ帝国成立の説明まで進んだ後に突然1736年露土戦争に飛ぶ部分で混乱しました。それと、空間的な説明がヨーロッパ→イタリア→ロシア→オーストリア(再びイタリアなど)→イギリスと東西を往復するので、これにも混乱しました。今回の編集ではそのあたりの修正を試みました。見出しを「背景と概説」に変更しましたが、これは、「概説」のままでは、読者が歴史の時系列な説明を期待してしまうと考えたからです。--Coleus 2006年10月6日 (金) 10:57 (UTC)
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[編集] 歴史的展開の「ナポレオンの時代」以降について
良い記事なので大きな変更は必要ないと思っていますが、順次整理していきます。今日は「ナポレオンの時代」を整理しました。Coleus 2006年9月26日 (火) 23:27 (UTC)
[編集] いくつかの修正点に関して
細かい点ではあるんですが、以前に秀逸な記事の選考で指摘した部分をいくつか直しました(メフメト5世については、「傀儡」という言葉には少々語弊があるので、多少柔らかく書き直しました)。私が投じた反対票へのKanbunさんのコメントは確かにその通りですし、あえてオスマン側の視点を排除した「歴史的展開」の記述で東方問題の本質を示唆するという手法もよくわかるのですが、それだと局面局面でオスマン側が取った態度が「なぜ」そのような態度だったのかというのがわかりにくいように思うのです。「なぜ」そのような態度をとったのかというのがわからないと、西欧列強が「なぜ」そうしたのかという点の理解もまた難しくなるように思います(もっとも、それをだらだら書いたら冗長になってしまうのも事実で、簡要にとなると難しいところではあるんですが・・・)。オスマン側も実は外交問題としての東方問題をちゃんと外交問題としての東方問題として理解しているのであって、選考のところで私が書いた内政・外交の相関とまではいかなくても、東方問題の記事ならばオスマン側の「東方問題」へのスタンスを簡単であっても一文入れる必要というのは、私はあると思います。「東方問題という枠組みを結果的に受け入れ、自らが欧州の勢力均衡に寄与する存在であることを強調する外交を行った」(ちょっと乱暴なまとめかたですけど)みたいなのをどこかに入れると、バランスの面ではよりよいと思います。F.V.E 2006年9月29日 (金) 17:00 (UTC)
- 大変丁寧な修正をありがとうございます。事実面で大きく前進したと思います。記事の内面についてですが、「それだと局面局面でオスマン側が取った態度が「なぜ」そのような態度だったのかというのがわかりにくいように思うのです。「なぜ」そのような態度をとったのかというのがわからないと、西欧列強が「なぜ」そうしたのかという点の理解もまた難しくなるように思います」という論点に関しましては、私自身はたとえばロシアについては南下政策の記事であったり、オスマン帝国にはタンジマートの記事やその外交を中心にした記事を用意することで、個別の視点についてはカヴァーできると思います。これはウィキペディアの特長であると思っていますし、そのようにすれば東方問題の問題点が、個別の立場からの批判を盛り込みすぎて曖昧にされてしまうことを防ぐことができると思います。これについてはたとえば正教徒の保護について記事内では繰り返し、それが本当の口実ではなくて介入の口実として使われている点を強調していますが、これも事実正教徒保護という口実が副次的であったかということについては明らかにできる問題ではありません。ではどうしてこういう記述がされるかといえば、あくまで「東方問題」ではロシアは汎スラヴ主義と南下政策を第一義的に追求した(仔細に研究すればおそらく実際全時代的にそうであったとはいえない)という解釈をするために、正教保護権については目的よりは手段として使われたのだという見方がされているということを示すためという感じです。ただこれはオスマン帝国側の「なぜ」が無視されてよいと言うわけではありませんし、そのほうが歴史的にはより重大な理由であるという点も否定できません。あくまで東方問題として記述するときに理由付けの取捨選択がおこなわれていることを示すのがよいと思われました(歴史的展開は冒頭部で述べた東方問題の問題のとらえ方の特徴をそのまま見ることができると思われます)。
- 私が「東方問題」をとくに重視しているのは、この問題が歴史において普遍的な価値を持つからではなくて、全く限られた、一方的な解釈を歴史に及ぼしているからです。東アジア史でもこの東方問題的視点、つまりヨーロッパの外交秩序に中国や日本が一方的に組み入れられていったという観点には疑問が提出され、研究においては今後むしろ反東方問題的な研究が主流となりはじめているとも思えます。一方でウォーラーステイン以後、中心と周縁という把握が主張され、ヨーロッパ中心主義として批判されてきた東方問題のように中心の側からの歴史認識を改めて重視する動きもあります。したがって「東方問題」を古いものとして無価値と断じ、一方的に否定する立場は中立的であるとも歴史に対して忠実であるとも思えませんし、かといってそれを全面的に認めるわけではありません。私自身はこの記事を「東方問題」で扱われる個々の問題について詳述する記事ではなく、「東方問題」自身を記述する記事とすべきと思いました。したがって個々の事件の相関関係はそれほど注意せずに、あくまでどのような事件が一般に「東方問題」として扱われ、そう扱われる根拠は何かという点を明らかにするスタンスで記事を構成しました。とはいえ「東方問題の記事ならばオスマン側の「東方問題」へのスタンスを簡単であっても一文入れる必要というのは、私はあると思います」という意見には全く賛成です。尊敬する永田の文章を外部リンクの筆頭にし、さらに「東方問題」史観という形で、オスマン帝国側の主体性・内在的発展も重視されるべきだという点は充分盛り込んだつもりだったのですが、私自身はオスマン帝国史はほとんど無知なので、もしかすると不徹底な面があるかと思います。その点については必要であれば盛り込むべきと思います。--Kanbun 2006年9月29日 (金) 23:24 (UTC)
[編集] 「『東方問題』における歴史学」について
現在の文章を読むと、「歴史的展開」の章と「東方問題における歴史学」の章が、どちらも歴史の時系列の記述で、役割分担がわからずに戸惑います。「東方問題における歴史学」の役割を教えていただけませんか?私の想像ですが、「東方問題における歴史学」は、一般論というよりは特定の歴史学者の優れた意見なのでしょうか。それならば、「○×によると」のように出典が明記してあれば、混乱は避けられると思います。--Coleus 2006年10月11日 (水) 06:26 (UTC)
- 「『東方問題』における歴史学」は、現代歴史学で特に争点となるような点を特記したものです。ここは「東方問題」の一般例ではなくて、あくまで歴史学で「東方問題」が争点となるときに取り上げられるであろう点を指摘するものです。「『東方問題』史観」については特に、個々の歴史学者の意見としては外部リンク先の永田雄三によるものが参考になるよう示してあります。したがって特定の歴史学者の意見というわけではなく、研究動向から結論づけたものです。前二つの箇所については時系列を抜き出しているのではなくて、東方問題の契機と東方問題の相対的影響低下期について特記しているものであることに留意ください(すなわち「東方問題」について学問上の対立が起こる際に、注目される時期であるとお考えください。それは活期がクリミア戦争であることは諸家ほぼ一致するのに対し、東方問題の全体の定義、全体の時期についてはそれほど統一的な見解があるようには思えないことを鑑みると納得されるのではと思います)。--Kanbun 2006年10月11日 (水) 06:38 (UTC)
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- 早速のご説明ありがとうございました。「現代歴史学で特に争点となるような点」とのことですが、だからこそ、「何がどんな争点になっているのか」を記述してあると、読者の理解を助けると思います。この点、「『東方問題』史観」については争点が記述してあり、よくわかります。前二つの箇所についてはその記述がないので、改めて教えてください。ここに書かれた「契機」と「相対的影響低下期」は、この記事の考えとは別の解釈を主張する研究者もいるのでしょうか?--Coleus 2006年10月11日 (水) 07:31 (UTC)
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- 具体的に記載すると、契機の部分はそれぞれ成立の時期の問題になることは一目瞭然であると思います。これは「東方問題的」な事例と「東方問題固有」の事例の線引きをいつするかという問題で、鎌倉幕府成立がいつかという問題と似ていると思います。二番目の東方問題の安定期の問題は、ヨーロッパの勢力均衡のなかで東方問題がどこまで中心的であったかという問題につながります。東方問題ではどちらかとえばオーストリアを中心として見ているために、実際にそれほど重要であったかあるいは歴史認識において重要であるかについての疑問が当然わきます。例示した東方問題安定期を中心に事件をあげますと、最初のナポレオン戦争、1840~42年にはアヘン戦争、1851年~1864年には太平天国の乱、1856年~60年にはアロー戦争、1858年にムガル帝国滅亡、1869年にスエズ運河開通などがあります。これらはヨーロッパ外交体制の拡大という面だけでも、東方問題と同等かより重要と思われる点も否定できません。したがってこの時期のヨーロッパ政治の中での東方問題の位置づけというのは研究者によって当然ばらつきがでてくるもので、それによって主にその影響面をめぐって、東方問題の定義が争点となるわけです。クリミア戦争が各国政治に大きな影響を与えたことは事実ですし、ギリシャ独立運動も全ヨーロッパ規模での世論の喚起を促したことは事実ですが、この時期のヨーロッパ政治が東方問題中心にめぐっていたとは簡単に言えないわけで、その点に注意すると東方問題が問題にされなかった時期、すなわちこの問題が相対的に安定化していた時期のヨーロッパ政治の動向に注目することになります。--Kanbun 2006年10月11日 (水) 08:10 (UTC)
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- なお記事の記載は参照元の文献と英語版を元に主に日本の歴史学における東方問題の一般像を示したもので、英語版は解釈が異なりますし、外部リンク先を参照してもわかるように、日本国内でも解釈が分かれているようです。高校教科書では「東方問題」という用語もすでに死語になりつつあるようで(笑)、私の手許にある教科書を見ると、カルロヴィッツ条約に出発点をおくものと1768年からの露土戦争におくものに分裂しているように思われます。高校教科書では、詳しい説明もされていないばかりか、ギリシャ独立運動はむしろ国民主義・自由主義に結びつけられていて、オスマン帝国支配の動揺期の記述では出てこない感じで、東方問題とは全く関係ないかのようです(しかし東方問題という用語がギリシャ独立戦争を契機として市民権を得たらしいことを鑑みれば、これは微妙に思えます)。--Kanbun 2006年10月11日 (水) 08:23 (UTC)
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ご説明ありがとうございました。本文に解説を加えてみましたので、ご確認いただけますでしょうか。--Coleus 2006年10月13日 (金) 00:05 (UTC)
[編集] 画像について
記事の見直しが一通り済みました。最後に、画像について整理させてください。当記事には豊富に画像が使われていて、それ自体は良いことだと感じています。しかし、一部の画像について、その項目の本文と釣りあわず、画像のためにかえって読者が混乱すると感じています。本文との関連がわかりやすいよう何箇所か修正しましたが、事前に意見をお伺いしたくて手をつけていない部分があります。次の画像について、省略・変更したほうが良いと思っていますが、いかがでしょうか?
- 「ヘルツェゴビナの反乱」の項のボスニア・ヘルツェゴビナの画像 → キャプションが「ボスニア危機」の内容なので、「ボスニア危機」の項に移動してはどうでしょう?
- 「ボスニア危機」のサライェボ事件の画像 → 本文には記載していない事件なので混乱します。本文記事を増やすか、画像を省略するか、どちらかが良いと思います。
- 「ドイツとオスマン帝国」のベルリン会議の画像 → ベルリン会議は「ヘルツェゴビナの反乱」の項に記載しているので、画像も前の項に移動してはどうでしょう?
- 「東方問題における歴史学」のビスマルクの画像 → 本文との関連が不明確です。「ドイツとオスマン帝国」の項に移動するか、省略するかしてはどうでしょう?--Coleus 2006年10月16日 (月) 04:36 (UTC)
- 画像は複数のブラウザを用いて、複数の画面設定を調整してバランスを見ながら、記事本文と関連すると思われる事項を元に配置しました。したがって基本的にはこれらは節について関連のあるものを重視していますが、最終的には記事と関連項目への理解と繋がりへの配慮から選定しています(好みはたぶんに影響していると思いますが)。以下説明します。
- 「ヘルツェゴビナの反乱」の項のボスニア・ヘルツェゴビナの画像については、一般の人にはボスニア・ヘルツェゴビナという地域がなじみ薄いと思うので、地図を示す必要があることからおいています。
- 「ボスニア危機」のサライェボ事件の画像について。本文中で第一次世界大戦とのつながりを意識しながら、意図的に直接第一次世界大戦まで言及するのを避けています。これは東方問題の記事であるという点に配慮し、東方問題の中心軸から逸脱しないようにということを意識しておこないましたが、当然どのように第一次世界大戦につながるのかという点には興味がわくと思います。そこで画像ではサライェヴォ事件を示し、そこにリンクをおくことで解決することとしました。サライェヴォ事件にとんでもらうとわかると思いますが、記事の背景部分は当記事の「ボスニア危機」のあとをぴったりうけたかたちになっていると思います。したがって「本文には記載していない事件なので混乱します」に対しては、むしろ逆で理解を深めるために配置しているとお考えください。私はサライェヴォ事件の画像は当然ここにあるべきと考えています。
- 「ドイツとオスマン帝国」のベルリン会議の画像については、基本的には前節におくつもりですが、バランスからここに配置しました。またこの節で述べられている列強の関係性の変化は直接的にはベルリン会議に由来するものですので、それほど不適切であるとも考えておりません。オスマン帝国がドイツに近づいたのもベルリン会議の結果であるといって良いと思いますから、ここはすなわちベルリン会議で形成されたビスマルク体制の東方問題における展開の説明箇所であるといってよいと思います。
- 「東方問題における歴史学」のビスマルクの画像のキャプションに「彼はオーストリアとロシアの間で「東方問題」に関する紛争が起こるのを嫌い、「公正な仲裁人」と称してベルリン会議を開いた。彼はこの会議で列強の利害を巧みに調整した」とあるように、ビスマルクは東方問題の歴史学に述べている列強外交中心的観点と東方問題の安定期の一例を兼ねています。ビスマルクの画像はどこかに是非配置したいと考えており、その際に適切と思ったのがこの箇所です。
総括しますと、とくにレイアウト上の配慮を優先しつつ、関連性を重視しています。画像は記事本文では省くのが適当と思われた側面を補強しようと考えて配置しました。また記事本文にはそれぞれの画像に関係する記述はあります。--Kanbun 2006年10月16日 (月) 05:44 (UTC)
- いつも丁寧なご説明ありがとうございます。なるほど、Kanbunさんが十分に検討のうえで画像を挿入されていることが良くわかりました。しかし、東方問題の予備知識を持っていない人には、Kanbunさんの意図が伝わらないと危惧します。一般に多くの記事・書籍では、挿絵は本文中の代表的場面を描いています。そこで、話を簡単にするために「ボヘミア危機」に絞って説明しますと、私のような素人は、「ボヘミア危機」というタイトルの項に「サライェボ事件」の画像があると、「サライェボ事件はボヘミア危機の中の代表事件だ」と誤解しがちです。私は、誤解したまま本文を理解しようとしたので、誤解に気付くまで苦労しました。「ボヘミア危機」と「サライェボ事件」の関係について予備知識がある人か、本文を読んだ後で十分に理解した人だけが、現在の本文と画像の関係を理解できます。このような誤解を招くことはKanbunさんの意図ではないでしょうから、東方問題の予備知識が無い人が初めて本文を読んでも迷わないようにご配慮した改訂を検討いただけませんか?(ボヘミア危機以外の画像についても同様です。)--Coleus 2006年10月16日 (月) 23:57 (UTC)
- 具体的にはどのように対処すべきと考えておられるのでしょうか?もし、いまでも最初の提案とおりに整理するのを対処として考えておられるようでしたら、私は反対です。サライェヴォ事件については本文中で言及した方がよいということでしょうか?私自身はサライェヴォ事件は東方問題の後日談の一つとして、重要な帰結の一つであっても、一般に東方問題に含まれるものではないと考えています(これはあくまで文献において扱われていないという意味でです)し、画像のところにリンクが示されており、かつサライェヴォ事件の記事ではどのような関連があるかが説明されていると思われます。また「「サライェボ事件はボスニア危機の中の代表事件だ」と誤解しがちです。」というのに対しては、「ボスニア危機」というのがいつからいつまでのどういうボスニアの危機を指すのかで意味内容が変わると思われますが、もしこの記事の内容の限りでのボスニア危機という意味であれば、そのような誤解は以上の理由から充分回避されていると考えています。逆にサライェヴォ事件まで射程を広げてしまうと、第一次世界大戦そのものが東方問題の帰結であるような誤解を生む気がします。「ボスニア危機以外の画像についても同様です」ということについても具体的に説明してくださると編集の参考になります。--Kanbun 2006年10月17日 (火) 00:25 (UTC)
- 補足説明をしますと、画像と本文記事の当該部分だけ見たときに誤解を招きやすいのは承知しています。しかし画像のリンクと記事全体の記述でそれはまぬがれているものと考えています。リンク先においてすぐに確認できることですから、記事を読み込まなければ誤解してしまうというものでもないと思います。また繰り返しになりますが、英語版でここで終わっているためにそれをこの記事は継承しています(私も文献を調べた限りでそれが妥当だと思っています)。しかしながら、それでは第一次世界大戦につながる点が把握できません。そこで記事中で言及しないかわりに画像のキャプションで示唆するという方法をとりました。--Kanbun 2006年10月17日 (火) 00:47 (UTC)
- 具体的にはどのように対処すべきと考えておられるのでしょうか?もし、いまでも最初の提案とおりに整理するのを対処として考えておられるようでしたら、私は反対です。サライェヴォ事件については本文中で言及した方がよいということでしょうか?私自身はサライェヴォ事件は東方問題の後日談の一つとして、重要な帰結の一つであっても、一般に東方問題に含まれるものではないと考えています(これはあくまで文献において扱われていないという意味でです)し、画像のところにリンクが示されており、かつサライェヴォ事件の記事ではどのような関連があるかが説明されていると思われます。また「「サライェボ事件はボスニア危機の中の代表事件だ」と誤解しがちです。」というのに対しては、「ボスニア危機」というのがいつからいつまでのどういうボスニアの危機を指すのかで意味内容が変わると思われますが、もしこの記事の内容の限りでのボスニア危機という意味であれば、そのような誤解は以上の理由から充分回避されていると考えています。逆にサライェヴォ事件まで射程を広げてしまうと、第一次世界大戦そのものが東方問題の帰結であるような誤解を生む気がします。「ボスニア危機以外の画像についても同様です」ということについても具体的に説明してくださると編集の参考になります。--Kanbun 2006年10月17日 (火) 00:25 (UTC)
再度のご説明ありがとうございました。私としては、現在の記事に混乱するので、最初の4点の提案が記事改善になると考えていますが、Kanbunさんの同意が得られないことがわかりましたので、特に気になる2点に絞って別の修正案を提案します。
- 「ヘルツェゴビナの反乱」の項のボスニア・ヘルツェゴビナの画像 → キャプションが後に記述するボスニア危機の内容になっていて混乱します。たしかに地図は有用ですから、画像の場所はこのままで、キャプションの内容を「ヘルツェゴビナの反乱」に書き換えてはどうでしょう?例えば、「1975年にヘルツェゴビナで発生した反乱はボスニアとブルガリアにも波及した」などです。
- 「ボスニア危機」のサライェボ事件の画像 → 本文との関係がわかりにくいので、「ボスニア危機の際にセルビア側に不満が残り、これが後のサラエボ事件となって第一次世界大戦の引き金を引くことになった。」と変えてはどうでしょう?なお、サライェボでなくてサラエボでもよければ、そちらの方がわかりやすいと感じます。--Coleus 2006年10月19日 (木) 23:53 (UTC)
- ボスニア・ヘルツェゴビナの画像について。この地域がこうむった影響から考えますと、反乱したことよりも結果としてオーストリアに併合されたことが影響が大きいのではないかと思います。反乱の結果自体については「ベルリン会議で~」となっているように記載されているのですが、もし反乱したことまで記した方がよい(私はすぐ横の記事中に書かれてあるので、キャプションにないからといって混乱することはないと思いますが)とのことであれば、画像のキャプションのつけ方については人それぞれということもありますし、つけてもよいのではと思います。そこで記載を増やしてみました。
- サライェヴォ事件の画像について。『「ボスニア危機の際にセルビア側に不満が残り、これが後のサラエボ事件となって第一次世界大戦の引き金を引くことになった。」と変えてはどうでしょう?』とのことですが、これは画像のキャプション中からテロリズムという言葉を排したいという意味でしょうか?(それ以外の主述関係も事実関係も変化がないので。サライェヴォ事件はテロリズムの代表例なので、テロリズムという言葉を消すべきという言葉には個人的にあまり賛成できません。)「サライェヴォ」については最近の文献でこの表記が目立つので、これを採用しました(最近の歴史学が原音主義を重視していることから考えると、原音に近いのかもしれません)が、原音に近いのかどうかは個人的に関知しませんし、私自身は原音主義に忠実であるべきとも考えていません。ので、「サラエボ」のほうがよいというのなら、べつにそれでもかまいません。--Kanbun 2006年10月21日 (土) 01:40 (UTC)
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- ヘルツェゴビナの反乱の画像のキャプション修正、ありがとうございました。
- ボスニア危機の画像のキャプションについて、改めて提案の意図を説明します。私が解決したい問題は、「知識の少ない人が初めて記事を見たときに混乱する」という問題です。私は、初心者には、本文を読む前にタイトル(ボスニア危機)と画像(サライェボ事件)だけを見て大枠を掴もうとする人が多いと考えています。そのような人は、現在の記事では「ボスニア危機=サライェボ事件」と誤解し、混乱します。Kanbunさんのご説明のとおり、本文を読んで、サラィエボ事件のリンクも読めば誤解は解けますが、そこまでしなくても誤解しない記事が「秀逸な記事」ではないでしょうか?そこで改善案として、
- 「ボスニア危機」という単語を使用する。なぜなら、「ボスニア危機」を知らない初心者は、現在のキャプションでは何がボスニア危機なのか分からず誤解してしまう。
- 「不満が残り、後の」のように、前後関係を明記する単語を使用する。これは「ボスニア危機=サライェボ事件」と誤解しないための配慮です。
- 「サラエボ事件となって第一次世界大戦の引き金を引く」と改訂しましたが、これは、「サラエボ事件=第一次世界大戦の引き金」と気付かない初心者に対する配慮です。
- サライェボではなく「サラエボ」と表記する。これも初心者への配慮で、より慣れている単語を使用したいという意図です。
- なお、ボスニア危機の定義は本文に従っています。テロリズムという単語の使用に異議はありません。提案で省略したのは、なるべくキャプションを長文にしたくなかったからです。以上が私の提案の意図ですので、どうぞご検討ください。--Coleus 2006年10月24日 (火) 00:07 (UTC)