来島長親
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来島 長親(くるしま ながちか、天正10年(1582年) - 慶長17年3月15日(1612年4月15日))は、安土桃山時代、江戸時代初期の大名。森藩初代藩主。来島通総の子。母は、安芸国人領主平賀隆景の娘。正室は福島正則の養女(姪)・玄興院。子に通春、娘(福島高晴室)。従五位下右衛門佐。
慶長2年(1597年)、父の通総が慶長の役で戦死したため、家督を継いだ。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に属し所領を没収された。しかし妻の伯父である福島正則の取りなしにより本多正信を通じ、慶長6年(1601年)幕府より豊後国の内陸部、森(大分県玖珠郡玖珠町)に1万4千石を与えられた。これには、知己の大坂商人よりの口添えもあったといわれている。また、名を康親(やすちか)と改めた。飛び地として大分湾に頭成港を領したものの、大半は海に属さない領地であり水軍としての来島氏では無くなってしまった。慶長17年(1612年)病没。享年31。
来島氏は長親の子、通春の時代の元和2年(1616年)に姓を久留島と改め、明治時代まで存続した。明治17年(1884年)華族に列し子爵となった。
明治から昭和にかけての童話作家久留島武彦は末裔にあたる。
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