李イク
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本来の表記は「李煜」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
政権 | 南唐 |
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廟号 | (なし) |
諡号 | 呉王 |
姓・諱 | 李煜 |
生没年 | 937年 - 978年 |
在位期間 | 961年 - 975年 |
父 | |
母 | |
陵墓 | 永陵 |
元号 | 建隆:961年 - 963年 乾徳:963年 - 968年 開宝:968年 - 975年 |
李煜(り いく、937年(昇元元年) - 978年(宋の太平興国3年)、在位961年(建隆2年) - 975年(開宝8年))は中国・五代十国時代の南唐の第3代皇帝(国主)。最後の皇帝であるため李後主とよばれる。君主としての政治的能力はほとんどなく、それよりも文学的・芸術的な才能のほうがはるかに優れていた。とくに韻文の一種で、勃興しつつあったジャンルである詞の大成者として知られる。
[編集] 略伝
元の名は李従嘉(り じゅうか)で即位とともに改名した。字は重光。父は第二代皇帝(国主)の李璟(李景)、母は鍾氏、兄に李弘冀ら五人、弟に李従善ら五人がいる。父も芸術方面で評価されているため南唐二主と並称されている。
李煜は937年、第六子として誕生。特筆すべき身体的特徴として瞳が二重(重瞳)だったというものがある。幼い頃から早くも詩文や書画に才能を見せていた。もとは鄭王だったが、959年に太子だった弘冀が没し、その他の兄も皆早世していたため、後継者と目されて呉王に封ぜられた。961年(宋の建隆2年)、洪州(江西省南昌)に遷都すると、李煜は太子に立てられてもとの都である金陵で監国として国事代行を担うことになった。6月、父が崩ずると金陵で即位した。内政では貨幣に鉄銭を導入して経済を混乱させ、重用する韓熙載などの臣下に任せきりであった。国力が衰えてきたとはいえ江南の豊かな経済力を背景に、自身の詞や数々の逸話で知られるような文芸活動と絢爛豪華な宮廷生活を続けていった。
974年(開宝7年)、宋は李煜の来朝を要請したがこれを拒否したため、口実を与えて侵攻を許すこととなった。そして975年12月、金陵が陥落し、北方に連行されることになった。976年1月、開封に到着し、以後軟禁生活を余儀なくされた。違命侯(のちに隴西公)に封じられた。
その最期は『黙記』によると、故郷を想う詞をつくったことを太宗に知られ、牽機薬という何度も体を折り曲げて苦しみながら死に至る猛毒を盛られて暗殺されたという。死後、呉王を追贈された。
[編集] 文芸
政務に余り熱心ではなかった李煜であるが、文芸の才は優れており、詞をはじめとして書や絵画などの分野にも心血を注ぎ、当時散逸していた唐の玄宗が編曲した「霓裳羽衣の曲」復元にも注力した。書法は「金錯刀」と呼ばれるもので味のある微妙な震えの表現が特徴である。
詞は李煜が亡国を経験する前後で作風が異なる。宮中で生活していた頃の作品は花鳥風月や男女間の機微を詠ったりと華美なものがほとんどであった。しかし幽閉生活という境遇は李煜の心情に大きな変化をもたらし、そこから生まれた哀切な表現は後悔や望郷の念といった悲壮さを帯びており、芸術的に一層の高まりをみせた。
李煜は自ら用いる文房具(文房四宝)の発展に寄与した。玉で作られた筆、龍尾硯(歙州硯)という硯、名職人李廷珪による墨、そして宮中の李煜が上奏文の閲覧や書斎としていた建物の名をとって澄心堂紙と呼ばれた紙が有名である。これらは専門の部局を設置して製造に当たらせるほどの熱の入れようであった。
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